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2015/06/01

「千円からいただきます」、動物行動学から見ると?


 今朝、スーパーで食料品を買って千円札をだしたら、例によって「千円からいただきます」と言われた。

 この“千円から”という言い方については、よく話題になる。
 たいていは、日本語として間違っている、という話だ。

 私は「美しい日本語」とか「正しい言葉使い」という言い方があまり好きではない。
 動物行動学的に考えて、言語は変わるものであり、語源を離れて変化していくのが当たり前だと思うからである。
 それなりの年月を経て、多くの人たちの中でもまれながら定着していった言葉や言葉使いはそれに当たると思うのだ(もちろん、そうではない、私も学生たちに厳しく注意するような、単なる考慮不足、知識不足による間違いもいっぱいあふれていることも確かだが)。

 そういう意味で、店員さんから「千円からいただきます」と言われても、ああ、そう言ってるな、と思うだけで、全く気にならない。
 その言葉は、それなりの年月を経て、多くの人たちの中でもまれながら定着していった言葉や言葉使いに近いものになりつつあると思っているからだ。

むしろ、「千円からいただきます」とか「千円からお預かりします」と言われた時に私が思うのは、なぜ「千円お預かりします」とは言わずに「千円からいただきます」と言うのだろうか、とその動物行動学的心理を考える。
その言い方が広まったのは、その言い方が、ヒトのなんらかの生得的な特性に合致していたからだと思うのである。

 長くなるので結論を言ってしまおう。
「千円からいただきます」と言われる理由については諸説あるが、私は、私がこれからお話しする動物行動学的視点から提示した仮説が一番正しいと思う。

 ヒトは、会話の中で、絶えず(意識的あるいは無意識のうちに)、相手に嫌な思いをさせないような配慮を行っている。
 言葉使いについて、敬語とか丁寧語、婉曲などさまざまな用法があることも、その配慮ゆえのことである。

 まして、店のレジでは、店員さんとお客さんという関係なので、店員さんは、相手に、極力、嫌な思いをさせないような言葉使いを編み出していくだろう。

 その意味で、「千円お預かりします」(あるいは「千円をいただきます」)より、「千円からお預かりします」(あるいは「千円からいただきます」)のほうが、相手の所有物に対する尊重、遠慮がより感じられやすいのだ、と私は考えている。
「千円からいただきます」は確かに文法的なおかしさを感じるが、実は、その言葉は本来、「お客さんが差し出された千円の中から、商品代の●●円だけをいただきます」といった文章なのだ。その文章の中の幾つかの単語が省略されて、「千円からいただきます」になったのだ、というのが私の推察である。
 つまり、差し出された千円を、「(あくまでも)これはお客さんの物ですよ」、「(そして)その中から商品代の●●円だけをいただきます」というニュアンスを出しているのである。
 
それに対して、「千円お預かりします」は事実として間違ってはいないが、言い方が直接的で(事実をそのまま述べただけで)、そこに相手への尊重、遠慮、感謝があまり感じられないのである。

それは、それらを言うほうも、聞くほうも、直感的に感じることなのだと思う。ヒトの二次的本能に根ざす感じ方なのだ。

「を」を「から」とすることによって、そこには、直接の事実の表現を和らげ、「(あくまでも)これはお客さんの物ですよ」、「(そして)その中から商品代の●●円だけをいただきます」を無意識のうちに感じさせ、相手への尊重、遠慮、感謝のニュアンスを生み出すのである。・・・・というのが私の仮説である。


私の仮説、どうでしょうか。いや、いかがでしょうか。