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2014/11/29

先住民とオリンピック


 昨日の新聞で、次のような内容の記事を読んだ。
 「2年後のリオデジャネイロ五輪を目指して、アマゾンの奥地で農耕や狩猟採集で生活している先住民をアーチェリー選手に育てるというプロジェクトが進んでいる。」

 彼らは弓矢で狩をしており、男の子は子どものころから弓矢で遊び、時に、乳や祖父から、その使い方を教えられるというのだ。彼らに、競技としてのアーチェリーをさせたところ、短期間ですぐれた成績を出すようになったという。
 その記事を読んで私は2つのことを思った。

 1つ目。狩猟採集の行動をオリンピックの競技(その一つがアーチェリー)に合わせるような口ぶりだけど、本当は、逆でしょ。狩猟採集の行動が先にあり(ホモサピエンスの20万年の歴史の9割以上)、近代になって、われわれの遺伝子や脳の中に眠る狩猟採集の活動への思いが、アーチェリーという競技の形で、ささやかに営まれるようになったのだ。

 2つ目。狩猟採集生活の先住民の人たちが、短期間でアーチェリーのすぐれた選手になっていったというけれど、それは彼らの能力のほんの一部に過ぎない。なんといたって、アーチェリーの“獲物”(標的)は動かない。自分や“獲物”の周囲の環境も変化しない。
 本物の狩猟採集では状況は全く違う。獲物は、それぞれの動物の習性に従って移動し、隠れ、警戒する。獲物をとりまく環境も刻々変化する。そんな中で、彼らは、種類ごとの動物の習性を考慮し、周囲の環境の変化も読み取りながら、次の場面を予想する。そして矢を放つ。
 

 新聞で紹介された取り組みは悪いことではないだろう。でも、こういった事実にも思いを馳せながら、彼らに大きな敬意を払って競技を見るべきだと思うのだ。そして、アーチェリーに限らず、競技の成立の過程で、狩猟採集というホモサピエンスの大いなる営みから捨て去られてきたもの(自然との関わり)の大切さについても改めて目を向けようではないか。

2014/11/27

台所の隅に網を張った黒いクモと妻の話


クモの“実写”は嫌だ、と言う方のために少しデフォルメした絵を描いてみました。

昨日、ちょっと妻を見直した出来事があった。
普通の家庭だったらありえなかったことだろう。
 
主役はクモである。中くらいの大きさの黒いクモである(そう、蜘蛛)。
台所の勝手口のドアにクモ(種類はわからないのでクロクモと呼ぼう)が、漏斗のような巣を、綿毛のような糸でつくっていたのだ(勝手口はここ数年、開けたことがなかった)。
よくある話だと、「その巣は、芸術的に美しく、見事な自然の造形だったのだ」みたいなことになるのだが、クロクモの巣は、お世辞にも美しいとは言えなかった。
巣は中心部の漏斗から周囲へと広がり、いかにも“空き家になった家の隅”のような雰囲気を漂わせていた。

私は、クロクモをよく目にしていた(ほぼ毎日)。というのも、その場所の近くに風呂の湯のスイッチ盤があって、風呂の準備のためにスイッチを押すとき、クロクモの姿が眼に入っていたからだ。もちろんクロクモの巣も。
「じゃあ、どうしてクモの巣を取らなかったの」と言われそうだが、そこがちょっと私が私たるゆえんで、私は、動物が好きなのだ。クモも好きだ。もちろん。
でもさすがに、すさんだ空き家を連想させる“巣”はちょっと気になっており、何度か、取って掃除してやろうか、と思ったこともあった。でも、そのたびに、クロクモを見て、こいつの家を壊したらかわいそうだな、と思いとどまっていたのだ。

さて、秋も深まり、肌寒さを感じるようになったころ、ふと、思ったのだ。
妻は、この状態をどう思っておいるのだろう。キッチンからあまり離れていないところにあるクモとその巣だ。当然何度も見ているはずだ。

しばらくして、(やぶへびになるのを恐れながら)夕食のとき妻に、さりげなく話題にしてみた。
すると妻は言ったのだ。「あー、あそこのクモ。寒いのにがんばってるわねー。いつも見たときはじっとしてるけど、巣を少しずつ少しずつ下へ広げていってるから、きっと夜中に働いているだわ。ハエを取るリボンを吊り下げていたけど、クモの餌が減るかもしれないからはずしておいたわ。」
続けて妻は言った。「あのクモは、もうずっと前からあそこに巣を張って暮らしているけど、クモは巣の中で、完結した世界をもっているということなのよね。水も餌も、その世界で調達して生き続けていると言うことなのよね。すごいじゃない。」

ほーっ。私は妻を見直したのだった。



森の古墳のなかに棲む一匹の雄のキクガシラコウモリ(2014/12/25改訂)


                    石室の中央に、静かにぶら下がる雄のキクガシラコウモリ


 息子のすすめもあって、今日からブログをはじめることにした。
私が書きたいなと思っているのは、「動物とヒトと動物行動学」みたいなものだ。今日のでき事、少し以前のでき事、はるか昔のでき事のなかから、「動物とヒトと動物行動学」を書きたいと思っている。
 そして私のブログのはじまりはコウモリの話からになる。
 これまで、ずっと、付かず離れず接してきたコウモリたちと、最近、深くつきあうようになった。
先日、二人の学生といっしょに、鳥取県の、とある山中の古墳に行った。ヒノキや自然林が茂る森のなかに、こんもりと土が盛り上がった場所があり、その土の下に、石で組み立てたトンネルのような部屋(石室)がありました。天井が、地面から1.5mほどの小さな部屋だ。
 もちろん私は、二人の学生を押しのけて(!)ライトをもって狭い入り口から入っていった。コウモリはいるだろうか、いるとしたらどんな種類だろうか、こういう瞬間は何度経験しても胸が高鳴る。
 すると、“トンネル”のちょうど真ん中あたりに、なんと立派なキクガシラコウモリの雄が、一匹だけ(!)、天井からぶら下がっているではないか(!!)。もう冬眠モードで、さわっても動かない。ちなみに、雄のキクガシラコウモリはなかなか見つからない。
 私は研究のための捕獲許可を取っていたので、木に実った高価な果実でも大切にもぎ取るように、全く動かないコウモリを天井から“もぎ取った”。
 大学につれて帰り、二日ほど調べた後、後ろ足に足環(セキセイインコの足首につけるようなリングと同じものです)をつけて、古墳に返した。
 山中の森のなかの古墳に一匹だけ棲む雄のコウモリ。
 意外に思われるかもしれないが、私はその姿の奥に、野生のロマンと、ヒトが幸福に生きるヒントの断片が隠されているような気がしたのだ。