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2016/09/28

里山生物園にはじめて花が咲いた。でもカエルに占拠された


公立鳥取環境大学まちなかキャンパス「里山生物園」に、開園以来、中で育ってきたキク科の植物(ヨメナ?)にはじめて花が咲きました、とHさんからメールが届いた。

ちょうど園内の植物の手入れに、久しぶりに行こうと思っていたので、さっそく翌日の朝、訪ねてみた。

するとどうだろう。ほんと可憐に咲いた花(これまでの園の道のりを思い起こさせてくれた)がそこにあった。

でも、目をその花の下へと下げていくと、花をシンボルにした家!といった様子で、トノサマガエルのキョロちゃんが絶好の場所に居座っていた(上の写真)。一瞬、違和感を感じる組み合わせ(?)

下の写真から、ご満悦そうなキョロちゃんの様子が伝わってくるような気がする。

花を愛でるカエル・・・みたいな。
里山生物園ではいろいろな動物たち、植物たちが、ある時は大きな、ある時はささやかな(でもその発見は大いに心を動かす)ドラマを日々見せてくれる。
そのドラマに気づく目を我々が持っていれば、の話だが。





2016/09/27

ほんとに君は脱皮の抜け殻?!


突然だが、スズメバチの共食いを観察した私は、タイドプール(潮だまり)がたくさんできている岩場に下りていき、いろいろな”動物”と出会った。

上の写真は、”動物”というより、”動物だったもの”と言ったほうが正確だろう。
少なくとも1週間前は、明らかに、生きたカニの一部だったのだが、そのカニが幽体離脱みたいに、その殻を残してでいて行ってしまったのだ。

だから、”動物だったもの”なのだ。

下の写真も、結構、脱皮殻とは思えない”動物だったもの”だ。下のカニの種類はすぐ分かる。イワガニだ。
 脱皮殻と言ってもこんなに見事なんだ。改めてそう思った私であった。





2016/09/25

海岸の後は地下洞窟のコウモリたち


海岸の後、コウモリの調査地を回った。

上の写真、どうですか。

一歩間違えれば、底も見えない地下洞窟。
前方をキクガシラコウモリとコキクガシラコウモリとユビナガコウモリが飛ぶ。

自然は雄大で驚きに満ちている。

スズメバチの共食い。動画あり。見る人は覚悟して見るべし。


ときどき行く岩場の海岸は発見の宝庫だ。
その岩場に下りる”砂の丘”からすでにいろんなことが起こる。

今日はその”砂の丘”で「スズメバチの共食い」を見た(動画も用意したが見たくない人は見ないほうが良い。私は生物学的にどうしてスズメバチ(今回の種類はコスズメバチかキイロスズメバチだろうが共食いはスズメバチの多くの種類で、またアシナガバチ類でも知られている)はこういう行動を行なうのか知りたいのでじっくり観察し記録もとった。
ハチ類の共食いは子育てがほぼ終わったころの9月の終わりから10月にかけて見られるという。

成体同士の共食いのやり方は決まったパターンで行われる。弱った個体の上に覆いかぶさるように乗り、頭部と腹部を切り落とし、翅を切り落とし、胸部(翅を動かすための胸筋が発達しており栄養価も一番高いと考えられる)だけにし、それを顎でくわえて飛び去る。

自分の巣の個体を共食いするときもあるらしく、生物学的な理由ははっきりしていない。

ちなみに、岩場の海水中の出来事(海水の動物については共食いの話ではない)は明日以降のブログで書くつもりだ(私のことだからそうはならないかもしれないが・・・)。
楽しい話にしたい。
でも、自然をまっすぐに見ることも時には必要だろう。




2016/09/24

生命体と機械の対比・・・?いやそんな深くないでしょ。


ケラを飼いはじめて2か月以上になる。

新しくできた実験棟の研究室に(引っ越しで)連れて来られ、机の上の飼育容器の中で今日も奮闘している(土の中で見えないことが多いのだが、きっといろいろ奮闘しているに違いない。ソンナイイカゲンナ)。

上の写真、いかにも「うん、奮闘してるよ!」みたいな表情ではないか。

ところでこの写真には深い深い(いや、それほど深くない。ドッチジャネン)意味が込められているのに気づかれた方はおられるだろうか。

写真の中央あたりの灰色の水平な帯(その中央あたりで)の上に、黄色いものが見えるだろう。
これは、実験棟に続いて建設がはじまった講義棟の工事に使われているパワーシャベル(重機)の腕と手の部分である。
そう、ケラちゃんが広げた腕と手と同じ機能をもった機械部分である。どちらも土を深く掘るための器官だ。

だからどうした?

いや、その、なんというか、生命体と機械の対比というか(AIの時代にちょっとテーマが古いですが)、・・・・やはり、あんまり深くなかったみたいな。

でもケラの腕と手、結構すごかったりして。これが生きるということなのだろうか。

実験棟から見えるヤギとトチの木・・・トチの木は夏を耐えた




上の写真は、完成ほやほやの実験研究棟の2階から見えるヤギの放牧場である。4頭ほどのヤギと、一人の部員の姿が見える。

一番左のヤギから少し離れて、斜め左上の位置に木が見えるだろう。放牧場のシンボルツリー、トチの木である。

このトチの木、ここへ移植されてから4年目になるが、今年も過酷な夏の暑さに葉はボロボロである(下の写真)。でも今年も命をもちこたえ、来年の春には(もう来年の話!2本の角をもった動物が笑う)蘇った青々とした葉を見せてくれるだろう。



そして今年は喜ばしいことに、トチの木の幹を頼ってツタがどこからかやってきてくれた。大学の建物の壁面を被うツタの子どもに違いない。

トチの木も、他の植物に頼られるべき生態系の一員としてまた一歩前進したということだ(まもなくヤギに食べられたりして)。



最近話題になっている本「外来種は本当に悪者か?」は本質的なところで間違っている


上の写真は、私が学生たち(今年卒業した二人のYくん、元気でやってる?)と一緒にコウモリ調査のために入った洞窟の中で出会ったハクビシンである。

私は、場所のせいもあるかもしれないが、見上げた洞窟の天井近い部分の棚にいたこのハクビシンが何やら神々しく見えた。野生の美しさを感じた。

でも本当に残念なのは、近年このハクビシンが増え、住居に侵入して被害を与えたり、在来種を捕食したりする現象が増加していることである。

話は変わるが、最近、科学ジャーナリスト フレッド・ピアス氏によって書かれた本の邦訳書「外来種は本当に悪者か?:新しい野生 THE NEW WILD」(草思社)がよく読まれているという。

本書の主張の骨子は、「これまで(保全)生態学者は外来種をとにかく”悪”としてみなしてきたが、世界の様々な場所を見ると、外来種が生態系を元気にしたり、生物多様性を豊かにしている場合もある。外来種は必ずしも”悪”ではなく、自然にとって”善”にもなる、という新しい見方をすべきではないか」ということだと思う。

私もざっと読んでみた。そして共感する部分もいろいろあるが、率直に言うと、悲しいな、と感じた。(内容に対して)ちょっとした憤りも感じた。
この本は、実に丁寧に文献や現地が調査された労作だと思う。しかし本質的なところで間違っていると思った。それは次のような理由からである。

外来種を人(一般の人や研究者)が問題にするのは大きく分けて次の2点からだ。
(1) その外来種が作物に被害を与えたり、毒などにより人に危害を加える。(2)人が生存するうえで不可欠な地球内部の大気や河川・海、土壌などの状態を維持してくれている、在来種同士のつながり(長年の進化の過程で形成された生態系)に被害を与える。

保全生態学で重視するのは特に (2) のほうである。

ほとんどの保全生態学者は、「とにかく外来種だったら悪いのだ」とはけっして言わない、思わない。保全生態学は「人ができるだけ健やかに生存できる状態や、それを維持するための具体策を研究する学問である。外来種であっても、その状態にとって害にはならない種や、場合によってはその状態の維持にプラスになる種があれば、駆除すべきとは言わない。

(1) については、そういう作用をもつ生物は、外来種であろうが在来種(たとえばシカやイノシシ)であろうがそれとは無関係に駆除すべきと考えられている。(ある程度は分けてやっても仕方ないのではないかといった)我慢すべきレベルが人によって異なっていることはあろうが、駆除についてはもちろんやむを得ないだろう。ただし、同時に、(その原因は人がつくっているのだが)個体数の過剰な増加や、居住地への侵入を抑え、(2) の状態も維持できるような対策も模索されている。

(1)や(2)に共通していることは、「人ができるだけ健やかに生存できる状態や、それを維持する」ことを目指している、ということである。
これは環境問題を考えるうえでとても大切なことだ。この”目指している”ことを聞いて違和感を覚える人も、特に生物好きの人のなかにはおられるかもしれない。でもここから目をそらしてはいけない。その点を自分はどう考えるのか。

「外来種は本当に悪者か?」の骨子、「これまで(保全)生態学者は外来種をとにかく”悪”としてみなしてきたが、世界の様々な場所を見ると、外来種が生態系を元気にしたり、生物多様性を豊かにしている場合もある。外来種は必ずしも”悪”ではなく、自然にとって”善”にもなる、という新しい見方をすべきではないか」は、次の点で間違っている。①これまで(保全)生態学者は外来種をとにかく”悪”としてみなしてきた・・・のではない。②「外来種が生態系を元気にしたり、生物多様性を豊かにしている場合もある」という点で、元気にするとはどういうことか、生物多様性の本質的な意味に関して認識が間違っている。③最終的に自然そのものがわれわれが一番大事なのではない。目指さなければならないことは「人が健やかに生きられる環境の維持」なのである。そして、そのために、野生生物のつながりがつくりだす健全な生態系が不可欠なのである。

私はハクビシンが人や生態系に与える害について十分には知らない。家屋への被害については、私だったらもう少し寛大に対応できるのになーとは思うが(それは私が動物が大好きだからだ。それは個人によって異なる)、生態系への被害については、個体数が増えすぎると無視できない状況をもたらす可能性が高い(もうそうなっている?)と思う。

いずれにせよ、生きる上ではわれわれは物事に優先順位をつけて選択しなければならない。
ハクビシンの命・・・それはもちろん大切だ。でも「人が健やかに生きられる環境の維持」はもっと大切だ。大切なことを皆々満たすことは、時間とエネルギーにおいてできないことだ。そもそもそれらが矛盾する場合にはどちらかを優先させなければならないのだ。



2016/09/22

在チェコ日本大使館から私にメールが?!



今日、在チェコ日本大使館から私にメールが来ていた。チェコ人の名前の方からだった。
  
Subjectは、「ニホンモモンガについて」であった。
何事かと思って読んだら(多少いびつな部分はあるものの立派な日本語だった)、次のような内容だった。

日本の自然と動物について、チェコの人たちに読んでもらうための本を作っている。その中で「日本に特有な動物」という項目でニホンモモンガ(チェコにはこんなかわいい動物はいない)について是非紹介したい。
ついては研究の記事などで先生(私のことだ)を知りメールした。モモンガの写真など使わせてもらえないか。

もちろん私は、これは一種の外交活動だと思い、チェコ国民と日本国民との懸け橋にならなくては、と「私にできることがあれば精一杯お手伝いしましょう」とメールを返した(明治時代か!)。

ニホンモモンガについては、以前シンガポールから、モモンガエコツアーに参加したいとの(それは真剣な思いだった)メールも届くなど、なかなか国際レベルで魅力を感じさせる動物なのだと喜んだ。もちろんニホンモモンガの生息地の保全(それが他の動物たちの保護にもつながる)の活動も続けていきたいと意を新たにしたのだ。

日本について紹介するための刊行物の情報は、http://www.cz.emb-japan.go.jp/jicc bulletin.htmlを参考にしてくださいとのことだった。

なんか、ちょっと私の日本語がいびつになってきたような気がする。

新しいモモンガ・グッズ 素朴で剛的なモモンガ!?


新しいモモンガ・グッズができた。写真のコップだ。

このコップの素材はかなり固く、修練と格闘の末やっとできあがった代物だ。
これまでのグラスやカップとは違った剛の味が出ている。

削りとともに現れてきたモモンガも素朴で剛的なモモンガだ(ドンナモモンガジャ!)



ささやかなストレス解消、いや動物とのふれあい




デスクワークでストレスがたまったときに最近やっていること。

机のそばの水槽からオカヤドカリを一匹、ノートの上に来てもらう。正確に言うと、自分では来てくれないので(アタリマエジャ)私がつまんで運ぶ。オカヤドカリは貝の中に閉じこもり身を固くしている。

そのままじっと見ている。

やがてオカヤドカリは貝から上半身を出し、周囲の様子を眺め、思い切ったように四肢を活発に動かしながらノートの上を這って移動しはじめる。

私が手を伸ばして、元の場所に戻す(自分では戻ってくれないので。アタリマエジャ)。

そのまま見ている。

やがて・・・・。

これを数回繰り返すと、私はちょっとすっきりする(オカヤドカリはストレスがたまる?)。

ほほえましいオカヤドカリと私のふれあいである(ドコガ!)。


森で出会った・・・・うーー、何と呼べばよいのか。




森で出会った・・・・うーー、何と呼べばよいのか。

写真を見ていただきたい。

きっと長ーーい年月を生き抜いて命を閉じた天然の杉だろう。その上にコケやシダ、ツルアジサイやドウダンツツジ、ブナなどの胞子や種子が舞い降り、養分をもらい育っているのだ。

やがてドウダンツツジやブナなどは根を地面までしっかり下ろし太くなり、自分で立って大木への道を歩みだすのだろう。

写真のピントが少々ずれているのは、私もカメラも、その生命の姿を前に、真正面から客観的に見つめるのをためらったせいかもしれない。


2016/09/19

お前はヤギか、紙を食べるコウモリ!これは大きな発見かもしれない.


上の写真は、すでにある本で書いた現象だが、「テッシュペパーを食べるモモジロコウモリ」である。

確かに食べるのだ。
テッシュペパーに虫の臭いとかが付いているといったことは、けっしてない。

なぜ、モモジロコウモリが紙(植物性成分)を食べるのだろうか。ヤギでもないのに。

テッシュペパーに含まれる化学物質に反応しているという可能性はないことはない。

でも私は、もっとロマンのある可能性を夢想している。モモジロコウモリは野生でも、ある種の植物を多少なりとも食べているのではないだろうか。

もしそんなことがあったら、結構驚きの発見だ。

高額な機器を使わなくても知識の大きな転換の機会はごろごろしている。



2016/09/18

生物環境分析回路の話: この話に反応する人は少ないだろうけど


森を歩いていて上の写真のようなものに出会ったらあなたはどう考えるだろうか。

それが、例えば前回のブログで書いた「生物のさまざまな要素を感じ取り読み取る脳内回路」の総合作業の結果なのだ。

私が写真の場面に出会って感じたのは次のようなことだった。

まず、この杉の木の穴は、人間が明けたものではなく鳥が開けたものだろう。
杉の木に甲虫が卵を産んでそれらが孵化して内部から木を(文字通り)むしばみ、段々と杉の木の生命力が弱まっていった。
そこにキツツキ類がやってきて幼虫が木の内部を食べる音とか、内部を移動する音に反応して嘴で穴を開け、幼虫を食べた(細かく言えばもっといろいろなことが読み取れるし、一方で読み取ったことがどれも正しいとは限らない)。

こういった生物環境分析回路は、特に、「甲虫」とか「キツツキ類」とか「幼虫」といった、生物のカテゴリー化や、それぞれの生物の習性・生態などを読み取り、それらの関係をストーリーをもってく組み立てていくという特性を備えていると私は思っている。

(最後に、私のいつものセリフを。)
なぜ、生物環境分析回路はそんな特性を備えているのか?
それは、そういう特性が生み出す情報が、ホモサピエンスが進化的に誕生した本来の生活環境であった狩猟採集生活での生存・繁殖にとても有利だったからである。




ヒトの脳内の顔検出回路のしわざ、そしてポケモン



森を歩けばよく遭遇することだ。

虫に食べられて空いた、単なる三つの穴が、ヒトの顔に見える。

これは、われわれホモサピエンスの脳内には、顔のような構成(”目”が二つ横に並んでいて・・・)の視覚刺激に敏感に反応し、顔だと感じさせるような神経回路(顔検出回路と呼ばれている)のしわざであることが生物学の分野においてはほぼ定説となっている。

顔検出回路は、新生児においてもしっかり働き(新生児にとっては、自分を守ってくれたり栄養を与えてくれたりする存在、つまり親などの保護者に敏感に反応することは、生存にとって何よりも大切なことだ)、簡単な顔のモデルにクリアーな注視行動を示すことが実験によって示されている。

心霊写真や、人面●●、メールの絵文字などに顔検出回路が関与していることはまず疑いない。

そんなことをいちいち考えていたら森歩きの楽しみが半減するんじゃない?と思われる方もいるかもしれない。

いやそれは逆なんだ。
2重の楽しみを味わえるのだ。森の心地よさや、自動的に起こる擬人化が感じさせてくれる感情の変化、面白さ、好奇心、それに加えて、それを科学の知見で説明しようとする楽しさ・・・・。

私は、いま現代人に求められていることは、前者の体験、つまり自然を直感的に感じる楽しさだと思う。
子どもを含めた多くの人々が、顔検出回路のような性質の、たくさん知られている自然の要素への本能的な感覚を生み出す回路を眠らせている(その回路の多くは大脳の側頭葉に存在すると考えられている)。
子どもたちが、そんな重要な領域を不活性化させたままで成長していいはずはない、というのが私の思いだ。

”ポケモン”への、特に子どもたちの傾倒は、大人たちのせいで自然とのふれあいを妨げられている子どもたちのけなげな(!)行動に思えてならないのだ(もちろんそれがすべてだとは言わないが)。




2016/09/17

シュレーゲルアオガエルとヤギの●●は、どちらも▲▲だ。


今日は、ゼミ生のIさんを連れて、Iさんが卒業研究のテーマにしているナガレホトケドジョウの棲む谷川に行ってきた。

ナガレホトケドジョウは日本各地で極めて希少な種類になってしまった魚種で、鳥取県でも数か所しか生息地は知られていない。もちろん私はその谷川の環境のことをいつも心にとめている。

Iさんが谷川で一連の調査活動をしている間、私は周辺の草むらで動物を探していた。
実は、周囲に繁茂していたクズの枯葉の裏で休息している可能性があるコテングコウモリを探していたのだ。

残念ながらコテングコウモリは見つけられなかったが、この季節にはなかなかお目にかかれないシュレーゲルアオガエルと出会った。

いろいろアングルを考えたながら撮った一枚が上の写真である。

ところでこのカエルの写真を撮りながら、私は「これまではっきり意識したことがなかったがカエルの●●は▲▲なんだ。ヤギと同じだ」と思ったのだ。

さて●●、▲▲には何が入るだろうか。
下の写真を見ながら考えてみていただきたい。


答えは、「(目の)虹彩(目の中の黒く見える部分)が横長なんだ」だ。(他にも入り得るものはいろいろあるだろうが・・・)

外敵に狙われやすい動物は、視野を広くするため、光を取り入れる虹彩は横に長くなっているのだろう、と解釈されている。

2016/09/16

さらに新しい奥の手「困ったときのモモンガ・カップ頼み」 



「困ったときのヤギ頼み」・・・もう少ししないと使えない。

「困ったときのニホンモモンガ頼み」・・・・しばらくしないと使えない。

私の懐の深さはこんなものではない。最新の奥の手「困ったときのモモンガ・カップ頼み」!

あと3時間後にモモンガショップでお会いしましょう。

2016/09/15

新しい奥の手「困ったときのニホンモモンガ頼み」 Newモモンガグッズ発売


「困ったときのヤギ頼み」はもう頼めない。困った。

そこで考えた。「困ったときのニホンモモンガ頼み」。

写真のような顔のモモンガ・マグカップ(”マグ”というほどにはでかくない)、モモンガショップに新発売!




2016/09/13

どーせ「困ったときのヤギ頼み」です


そーです。分かってます。どーせ、「困ったときのヤギだのみ」です。
もちろんこれで「いいね」をもらおうとは思っていません。分かっています。

でもほんと体調悪いのよ、最近。でも仕事はあるし。
コハルやクルミたちに愚痴聞いてもらうしかないじゃないの。

みんな、餌を持っていくと、、食べてしまった後で、ちゃんと私のほうに顔を向けて話を聞いてくれているような様子をしている。
単に、「もう餌無いの」だったりして・・・・。


魚と意識



上の写真は、先日、鳥取県と岡山県の県境、右手峠の谷川の住人、カワヨシノボリである。

いかにも私に向かって威嚇しているような姿である。
実際、ヨシノボリの仲間は、雌の産卵場所として雄が一生懸命水底に掘る穴をめぐり、雄同士が口を大きく開け合って威嚇しあう。

ところで数年前、「魚は痛みを感じるのか?」という本がアメリカの生物学者ブレイスウエルトに出版され、世界中で話題になった。

「”自分”以外の動物が痛みを感じるかどうか」なんて、自分以外にどうしてわかるのか。
もちろんそれは不可能だ。でもわかりやすい例で言えば、たとえば、次のような実験で、間接的にその可能性の高さを示すことはできる。

ハツカネズミに、腱鞘炎を起こ薬を与える。
果たしてハツカネズミは四肢に痛みを感じているだろうか?
まず、ハツカネズミが好む砂糖水を入れた容器を2つ用意し、一方には鎮痛剤と苦い味の物質も加えておく。すると腱鞘炎ではないハツカネズミは砂糖だけの水しか飲まないのだが、腱鞘炎を起こす薬を与えられた個体は、鎮痛剤と苦い味の物質も加えられた水も飲むようになる。

魚でも同様なアイデアに基づいた実験(少々複雑)が行われ、「痛み」を感じている可能性が高いことが示されたのだ。(もし魚の痛みを配慮すれば、養殖場などでの設備や魚の扱いは変更を迫られるだろう)

さて、上の写真・・・魚は私に怒りを感じているのだろうか。
そしてその可能性を調べるよい方法はないものだろうか。



2016/09/11

お土産はヤギ菓子?


昨日、京都学園大学のヤギ部の学生さんたちが本学のヤギ部を訪ねられた。私は30分ほどしか会えなかったのだが、個性豊かな方々だった。一番印象に残った人は、ポニーのような髪型でヤギよりヒツジが好きで、「実は僕はヤギ部ではないんです」という学生さん。・・・・なかなか複雑なんだ。

ちなみに写真は本学のヤギ部の人がお土産にと作ったホットケーキ。結構いいんじゃないの(ちなみにヤギの焼き印は私がデザインしたんだけど)。
大学祭で買いましょう・・・・みたいな。

最後に。
動物の命を預かることはほんと重いことだね。・・・ね。

2016/09/10

私はアニマル・ドローイング・オンザコップにはまったのだろうか




最近調子は悪いし、デスクワークに追われていて目いっぱいストレスフルになっているせいだろうか。

夜遅く家に帰り食事を済ませると、少しの時間ささやかな創作にいそしんでいる。

題してアニマル・ドローイング・オンザコップ(略してアニドロコップ)だ。
今日は色付きの瀬戸物コップのようなものの上にニホンモモンガを書いてみた(刻んでみた)。名前のサインも入れた。結構うまくできたと思う。

数日中に仕上げてモモンガショップの雑貨に入れたい。

今日のブログのタイトルは「私はアニマル・ドローイング・オンザコップにはまったのだろうか」にした。でも、”コップにはまる”という表現がなにか気になった。よく考えると理由がわかった。

私は一寸法師じゃない。

さて、また寝るまでに一仕事だ。

新しいモモンガグッズ


新しいモモンガグッズ、できました。

それだけ。













実験研究棟の竣工式のお土産 キャンパスの野生動物たちコースターなのだ






上の写真は、来る9月20日に行われる公立鳥取環境大学実験研究棟の竣工式で、来賓の方々に持ち帰っていただくお土産である。

大学のキャンパス内に生息している野生動物の代表をモチーフに作ったもので、コースターになっている(裏面には種名、生態などが英語で書かれており、英語圏の方にも対応しているのだ。裏面の写真がなくて残念だ)。

話せば長くなるが、一か月余り以前に、これに似たものを大学の「まちなかキャンパス 里山生物園」のお土産として作っているのを局長さんがご存じで、ああいったものはできないか、とのご相談があったときから、作業は始まった。

式全体の計画を担当する事務のNさん、動物のデザインをイラストレーターでつくることを私から依頼されたゼミ生のAさん、一番上の写真の構成と制作を実際に手掛けることになった木工室のAさん、そして動物の写真や説明、二人のAさんやNさんとやり取りをすることになるこの私たちが、山あり谷ありの作業を行ってきたのだ。

それぞれの作業の大変さを知っている私は(後者のAさんは、来賓数だけ仕上げなければならないので今も作業中だ)、慰労会が必要だと思っている。

Nさんは事務局の朝礼で、出来上がった一品を披露して「渾身の作です」と言われたらしい。事務の方たちの評判は良いと聞いた。

まー、そういうことだ。

一番大切なのはもちろん実験研究棟(Environmental Research Institute ・・・Centerだったかな。まーいいか)での研究だ。

まー、そういうことだ。




ヒトはなぜストーリーを作りたがるのか?白い雲の竜を見たナンチャッテ


先日、山に向かって車を走らせていたら、前方に、私の頭の中の竜の姿にとてもよく似た雲(中央あたりの木の上の位置である)が、右手の山のすそ野から、家々の上を左へと動いていた。

”頭部”の後ろには多少薄くはあるがしっかりと胴体が続き、何やら「村の守り神の竜が村を被うようにゆっくりと移動している」といったような印象をもったのである。

これは、私が、いろいろな記憶と場面を融合させて作った一種のストーリーだ。
そして、こういった類の話は世界各地に残っている。

結論から言うが、動物行動学の視点からは、次のような指摘ができる。

ヒト(の脳)が、自分の生存繁殖に必要な、さまざまな記憶をするためには、各々の事物事象を単独で別個に記憶するよりは、それぞれの間につながり(例えば因果関係)を想定して記憶したほうが効果的であることが知られている。
つまりそれがストーリーなのではないだろうか。

アメリカの動物行動学的人類学者エレン・ディサーナーは、芸術とはもともと「特定のものを、皆の記憶に残るような”特別なもの”にしようとする衝動が生み出す行為、あるいは作品であり、それは個体の生存・繁殖に有利であっただろう」と述べ、その分野では一定の評価を得ている。

絵画、文学、映画、等々、確かに、芸術的とみなされる作品は、感情を大いに刺激して事物事象を深く心に(脳に)刻む特性がある、とはおもわれないだろうか。

「村の守り神の竜が村を被うようにゆっくりと移動している」・・・その映像は私の心に確かにある種の雄大さと人々の営みを思う感情を沸き立たせた。
もっとも、数日後には忘れ去ってしまうかもしれないが。何せ、ちょっと驚くリアル生物の世界に刺激されることが多いので。

そう、私にとっては自然の中に芸術が、アートがごろごろしているのだ。

2016/09/05

マジで大いに研究に値する内容!?



もし、このブログを読んでいる方のなかに虫屋さん、特に蛾の研究者がおられたら教えていただきたいのだ。

上の写真は、1か月ほど前、大学の建物の中で見つけたヤママユガの仲間だ(種名まではわからない。この写真を撮った直後に外に逃がしてやったので)。

私の目はこの蛾の翅のある部分にくぎ付けになった。
右上の翅の部分だ。

その部分だけ鱗粉がはがれて通常は見られない鱗粉の基部の模様が現れている(通常はこの模様にわれわれが気づくことがないことは、左上の、鱗粉がはがれていない部分をみれば容易に想像できる)。

その模様が、なんと○と△の幾何学模様ではないか!
その部分を拡大したのが下の写真だ。



私はすぐに外に逃がしてやったのだが、蛾にはかわいそうだがなぜ体全体の”鱗粉の基部”模様を調べなかったのか(○△模様が他の部分にも存在するのか、この部分だけなのか、を)、悔やんでる。

この事実の重要性は以下の2点だ。

(1) 実際の、はっきりした目玉模様が進化するとき、実は前段階があって、まずは、基部において目だも模様の基礎ができており、そこに、鱗粉の色の変化が起こって”はっきりした目玉模様”が誕生したのではないか。そんな進化のストーリーを想起させてくれる。

(2) その後、数匹のヤママユガの翅を調べたのだが、例えば、下の写真のように、○△のような基部模様は見られなかった。種が異なるのか、個体ごとの特性なのか(後者はちょっと考えにくい)。ひょっとすると現在同一種と考えられているものも○△のあるものとないものがあって、系統的に別種なのかもしれない。

もうヤママユガの季節は過ぎ去った。
来年、覚えていたらぜひ調べたい。

あるいは、・・・・
もし、このブログを読んでいる方のなかに虫屋さん、特に蛾の研究者がおられたら教えていただきたいのだ。この事実はすでに分かっていることなのか。そしてもし分かっているのならその内容を。



なんか最近、ヤママユガ関係の記事が多かったりして。

2016/09/03

新シリーズ 一応、引っ越しは終わったけど その1

断捨離を心に秘めての研究室の引越しだった。

したがって、高さが30cmを超える巻貝(の殻)も手放すことにして、まずは新しい研究室に運んだ。
でも、どこへ断捨離するかでその後、悩む日々が続き、やっと今日、その場所を”海の波打ち際”と決めた。

気持ちの良い日だった。

大学へ行く途中に、よく訪れる海岸の波打ち際においてきたのだった。



でも、そのまま何もなく帰れる私ではないことは自分でもよくわかっていた。
まずはスナガニの穴が気になった。見ているとスナガニがチョロチョロ出てきてはササッーーと走り、また穴へ、と、明らかに私に「追いかけてみろ」というメッセージを送るかのように、私を挑発してきた(ように感じられた)。

もちろん私は、○×△・・・・・・!!!

その結果が下の写真である。

波打ち際をヒトが歩いているのがわかるだろうか。
大きな巻貝(の殻)を見つけたらどうするだろうか。






2016/09/02

卒業生の言葉と「動物行動学的に興味深いポケモン」の再開 


ツイッターで、「動物行動学的に興味深いポケモン」をつぶやいていたのだが、あるとき体調不良でブログもツイッターも休止した。その後、両者を再開したのだが、「動物行動学的に興味深いポケモン」はそのままダウンしていた。

今日、引越しが済んだばかりの新しい研究室に卒業生のTさんが訪ねてくれた。

いろいろ話をしていたら、「動物行動学的に興味深いポケモン、もうやらないのですか?とても面白いのに」と言ってくれた。

この言葉に私はたいそう気をよくして、またはじめることにした。そして下の通りだ。

ただし、Tさんは、帰り際にこう付け加えたのだ。「先生が書きたいと思ったときは書けばいいし、書きたくないときは書かなくてもいいと思います」
結構深いのだ。この言葉。

成長しているなー、これも私の指導がよかったからかなー、と私は大変気をよくしたのだ。
浅いのだ。この感想。

動物行動学的興味深ポケモン その15:イトマルは背中に顔のような模様をもち、「こわいかお」を繰り出す時は模様が怒った表情になるという。リアル動物の中にもいますよ。そういう習性の昆虫。ヤママユガの一種だ。百聞は一見にしかず。下の写真



ただ今、引越し中 その最終 そりゃ16年過ごした場所だから


今日、引越しも最後を迎えた。

”仕事の合間にちょっと引越し”みたいなことを繰り返してきたから結構、日数はかかったが、今日で最後をむかえた。

最後の荷物(パソコンなど)をもってドアを押して出ていくときは、さすがにいろんな思いが湧いてきた。
そりゃそうだ。16年間、様々な思いを抱えながらこのドアを開けてきたのだから。この研究室で仕事をしてきたのだから。

そしたら、最後の最後に片付けの最後の作業を忘れていたことに気づいた。ドアの写真の動物たちを剥がさないといけない。
そして私は一枚一枚剥がしはじめた。

写真のいくつかを下にのせてみる。













今日の引越しでは、カメ(海の潮だまりにいたミドリガメ)を台車で運んでいるとき、容器が転げ落ちた。
廊下にはいつくばって、カメ、カメ、・・・と探していたら、ちょうど通りかかったサル、じゃなかったフットサル部の女子たちが見つけてくれた。
彼女たちは、ついでに、廊下に広がった水をティッシュペーパーで一生懸命ふき取ってくれた。うれしかった。

新しい研究室には、まだダンボール箱に入ったままの荷物が並べられている状態だが、廊下向きにある窓にモモンガプロジェクト(そういえば昨日再開した芦津モモンガショップに早速注文が4つ来ていたという)のポスターを貼った。
その部屋をちょっとだけお見せしたい。

明日からこの研究室でまた仕事を頑張りたい。しんどいこともたくさんあるだろうけど。