昨日の新聞で、次のような内容の記事を読んだ。
「2年後のリオデジャネイロ五輪を目指して、アマゾンの奥地で農耕や狩猟採集で生活している先住民をアーチェリー選手に育てるというプロジェクトが進んでいる。」
彼らは弓矢で狩をしており、男の子は子どものころから弓矢で遊び、時に、乳や祖父から、その使い方を教えられるというのだ。彼らに、競技としてのアーチェリーをさせたところ、短期間ですぐれた成績を出すようになったという。
その記事を読んで私は2つのことを思った。
1つ目。狩猟採集の行動をオリンピックの競技(その一つがアーチェリー)に合わせるような口ぶりだけど、本当は、逆でしょ。狩猟採集の行動が先にあり(ホモサピエンスの20万年の歴史の9割以上)、近代になって、われわれの遺伝子や脳の中に眠る狩猟採集の活動への思いが、アーチェリーという競技の形で、ささやかに営まれるようになったのだ。
2つ目。狩猟採集生活の先住民の人たちが、短期間でアーチェリーのすぐれた選手になっていったというけれど、それは彼らの能力のほんの一部に過ぎない。なんといたって、アーチェリーの“獲物”(標的)は動かない。自分や“獲物”の周囲の環境も変化しない。
本物の狩猟採集では状況は全く違う。獲物は、それぞれの動物の習性に従って移動し、隠れ、警戒する。獲物をとりまく環境も刻々変化する。そんな中で、彼らは、種類ごとの動物の習性を考慮し、周囲の環境の変化も読み取りながら、次の場面を予想する。そして矢を放つ。
新聞で紹介された取り組みは悪いことではないだろう。でも、こういった事実にも思いを馳せながら、彼らに大きな敬意を払って競技を見るべきだと思うのだ。そして、アーチェリーに限らず、競技の成立の過程で、狩猟採集というホモサピエンスの大いなる営みから捨て去られてきたもの(自然との関わり)の大切さについても改めて目を向けようではないか。