2014/12/31

山イヌがウサギをくわえて走るのを見た少年



 先日、実家に帰ったら、一人暮らしの父が、「おまえが小学生のときに学校で書いたものが出てきた」と言って、2冊のノートを渡してくれた。
 それは、小学校の2年生のとき、(おそらく)学校の宿題として課せられたと思われる日記だった。私は、40年以上も前の自分に会えるような嬉しい気持ちでノートを広げた。懐かしい名前がたくさん出てきたが、(今の)私に一番関心を示させた文章の一つは、次のようなものだった(なにぶん小学校2年生が書いたものなのでわかりにく部分も多々あると思うが想像も交えて読んでいただきたい)。

 四月十日 日よう くもり
 山に行った。それで山のてっぺんにいってもみじや木のはがおちているみちにでた。そうしたら、「どっとこどっとこ」というおとがしたので、ぼくは、それで、うしがはなれているのかとおもったら山いぬがうさぎをくわえてはしっていた。

 「山いぬ」!?「ウサギをくわえた」?!なかなかスリルのある体験をしたものだ。それにしても、随分と野生に近い環境で育ったものだなーといまさらながら感慨にふけった。でも、確かにそういう環境で育ったのだ。
 その体験については、今、まったく記憶にない。
 似たような体験としては、当時、飼っていたトムという名のイヌと一緒に山深く分け入ったことだ。

 山深く、はじめての場所で合う風景は、幼い私を不安とワクワク感とが入り混じったような不思議な気持ちにした。トムと一緒だったから試みた冒険だった。そしてその場所は、すでに記憶にあった場所と結びつき、私の世界は広がっていった。そんな体験をしながら、私は、頭の中に、当時の私の居住地(つまり実家がある集落)周辺の地図をつくりあげていったのだろう。
 慶応大学の生物学者 岸裕二さんは、著書「自然へのまなざし」(紀伊國屋書店)のなかで、次のような文章を書かれている。
 「乱暴を承知であてずっぽうをいえば、ホモ・サピエンスは少年・少女時代に大地と遊び、すみ場所の基本特性を心に刻み、地表に定位する習性をもつ生きものである。」
 私はその言葉に、“乱暴を承知で”、とても共感するのである。


 それにしても、繰り返しになるが、獲物を運ぶ山イヌに出合ったとは、なんとラッキーな少年時代を送ったことか、そして、その場面は、小林少年自身にとっても獲物にされる可能性のある、結構危ない場面だったのではないか、と思うのだ。

 日記に書いている場合かよ。



2014/12/30

ミロの仕事場



この絵は、スペインの大芸術家ミロの創作活動を記録した写真集「ミロの仕事場 ある宇宙の肖像」の中の一枚をモデルにして、私が描いたものだ。

 ミロは、海岸や草原の小道で見つけた貝やウニの骨格、樹肌や枯葉の模様、岩や木切れ表面のしみ等から、多くの情報を感じ取り、多くの刺激を受けてきた。そして、自分の中で消化し、微細で厳格な配慮をもって、ある本質を表現してきた。その本質の一つは、「生命の律動」だと思う。

 リズムやバランス、対比、スピード、安定、変化、統一性といった、生命が本質的にもっている特性を、キャンパス上の絵の具で、あるいは自然物や人工物の配置によって表現しようとしたのと思う。


 それが、自然を体感し、理解する深い作業なのだとしたら、生物学者が、ミロの作品に魅せられないはずはないのだ。

2014/12/24

道を直すヤマトシロアリ(動画)


今日は、私の研究室の飼育容器の中で、静かに紙をかじっているヤマトシロアリについてお話したい。
なぜ飼っているかというと、それは、私がヤマトシロアリを好きだからだ。
ヤマトシロアリは、イエシロアリほど家屋への害はない(でも、少しは害を与えることもなきにしもあらず、らしい)。
里山へいってその気で探すと、必ず、倒木の中やその下で見つけることができる。倒木や枯葉を分解する健康な生態系にとって欠かすことのできない生物だ。
 シロアリは、その腸内に、木質繊維を分解するたくさんの原生動物やバクテリアを飼っている。私は学生実習で、顕微鏡でそれらの原生動物を見てもらっている。先日の実習で、私がこれまで見たこともない、かなり大きくてインパクトのある種類をある学生が見つけた。下に、動画と写真を載せたのでご覧いただきたい。
 
ところで、京都大学の杉浦健二さんは 「シロアリ 女王様、その手がありましたか!」(岩波書店)というとても面白い(学術的にもとても価値のある)本を書かれている。その本の中には、「生物個体は遺伝子が設計した、自分たちが増えるための乗り物だ」という、進化に関する仮説(そういう内容の仮説は、一般的には“利己的遺伝子説”と呼ばれる)を支持するご自身の研究がわかりやすく書かれている。
また、本には、シロアリの習性に関する驚くような話も紹介されている。たとえば、「シロアリは水中でも一週間も生きる」とか、「シロアリの卵に擬態して(姿を似せて)、シロアリの巣の中でうまく生きているカビ(!)がいる」とか・・・。

私が興味をもっているのは、ヤマトシロアリの道直し行動だ。
シロアリは、巣から出て餌を見つけたとき、巣と餌の間に、土や木くずで、中がトンネルになった通路(蟻道)をつくる。体表に黒い色素をもたないシロアリたちは、体に日光が当たるとダメージを受けるので、トンネルの中を移動するのだ。
そんなシロアリの通路に、私はときどき、いたずら心で、穴を開ける。するとその部分にはシロアリたちが集まってきて、最初は右往左往しているのだが、やがて協力して穴を修復しはじめる(その動画も添付しました)。
わたしはそんな彼らの行動を見ながら、“生命のこと”、“脳のこと”、“進化のこと”、“感情のこと”、“今晩の食事のこと”(これは冗談)など、いうなれば、小さな宇宙を感じながら、しばし物思いにふけるのだ。


 シロアリの腸内で見つかった、ちょっと変わった原生動物

 
               シロアリの顔は結構かわいい 



シロアリの巣の前に、彼らが好きな餌(ティッシュペーパーを水に濡らして丸めたもの)を置いておくと、シロアリたちは一番近い餌に通うための通路をつくる。


シロアリの腸内の原生動物たち




          
シロアリ道直し

2014/12/22

ノーベル文学賞モディアノ氏のテーマと動物行動学


今年のノーベル文学賞を受賞したのはフランスのモディアノ氏であった。私は、氏の小説を読んだことはない。でも、新聞や雑誌で、氏についての記事を読んで動物行動学の視点から感じることがあったので是非、お話ししたい。
 “動物行動学の視点から感じること”というのは、氏の小説の多くが、「自己の喪失」と表現できる内容と深くかかわっているということである。「自己喪失」は「自己アイデンティティー(自分とは何者か。他者との関係は?)の喪失」と言ってもよいだろう。

 私は、常々、エンターテイメント性が高い小説だけでなく、いわゆる芸術性の高い小説でも、そこには、ヒト本来の、動物としての特性が色濃く現れていると感じている。ちなみに、「ヒトの動物性」と書くと、なにかヒトのネガティブな面を指しているように感じられる方もおられるかもしれないが、動物行動学ではそんな意味は全くない。「ヒトの動物性」を追及することは、愛も憎しみも、正義も悪も、価値観という心理も、その生物学的意味に着目して理解しようとする、人間を真剣に理解しようとするうえで欠かせない作業なのだ。そして、その「ヒトの動物としての特性」とは、狩猟採集生活(ホモサピエンス史の9割以上は狩猟採集生活だった)の中での生存・繁殖に有利な特性ということになる。

 たとえば、“警察”が小説の舞台になりやすいのは、それが、ヒトの生死、愛や憎しみ、獲物の追跡、といった、猟採集生活の中での生存・繁殖に深くかかわる出来事をダイレクトに見せられる場だからではないだろうか。それと同様に、家族や人々の絆の中で生じる葛藤は、ヒトの生存・繁殖に深く関わる出来事である。

 さて、そういった、狩猟採集生活の中での生存・繁殖に深くかかわる重要なテーマとして、先に述べた「自己アイデンティティー」があるのだ。
「自己アイデンティティー」を動物行動学の視点からひも解くと、次のようになる。
自己アイデンティティーとは: 「自分の血縁者(父母、祖父母、兄弟姉妹など)の認知」や「自分が暮らしている地域での人々のネットワークの特性、外界の自然や事物の特性の理解」

「生物の体や脳の構造(行動や心理も)どのような方向に進化するのか」という問いへの答えとして、現在、最も確からしいと考えられている仮説は、「生物の中に含まれる遺伝子をより多く残せるような体や脳の構造に進化する(そういう生物を設計した遺伝子がより多く増える)」である。
だとしたら、自分と同じ遺伝子をより多くもっている血縁者に特別な関心を示す(そして手助けする)心理は、必然的な進化の産物ということになるのだ。
また、自分が生きている部族や地域の中で、何世代にもわたって、その効用が実証されてきた、人間同士の付き合い方、自然のとらえ方を覚えようとする脳の性質も、必然的な進化の産物なのである。

現在、われわれが生きている、いわゆる文明の時代を考えてみよう。それは狩猟採集時代と比較すれば、まばたきするほどの長さの期間である。しかし、その中でわれわれは、生活の場となる環境を大きく変え、家族の崩壊や都市への移入などを引き起こし、狩猟採集時代には当たり前だった「自分の血縁者の認知」や「地域の伝統的文化との接触や継承」を達成しがたいものしている。
その状況が、人間の精神に深い傷、埋めがたい空白を与える場合も多いに違いない。

モディアノ氏が、現代社会という環境の中で失われやすい「自己アイデンティティーの喪失」にこだわったのも、“必然的な進化の産物としての心理”と無関係ではないと思うのだ。
それは一人の小説家が生涯をかけて問い続けるに足るホモサピエンスをめぐるテーマなのだと思うのである。


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