先日、実家に帰ったら、一人暮らしの父が、「おまえが小学生のときに学校で書いたものが出てきた」と言って、2冊のノートを渡してくれた。
それは、小学校の2年生のとき、(おそらく)学校の宿題として課せられたと思われる日記だった。私は、40年以上も前の自分に会えるような嬉しい気持ちでノートを広げた。懐かしい名前がたくさん出てきたが、(今の)私に一番関心を示させた文章の一つは、次のようなものだった(なにぶん小学校2年生が書いたものなのでわかりにく部分も多々あると思うが想像も交えて読んでいただきたい)。
四月十日 日よう くもり
山に行った。それで山のてっぺんにいってもみじや木のはがおちているみちにでた。そうしたら、「どっとこどっとこ」というおとがしたので、ぼくは、それで、うしがはなれているのかとおもったら山いぬがうさぎをくわえてはしっていた。
「山いぬ」!?「ウサギをくわえた」?!なかなかスリルのある体験をしたものだ。それにしても、随分と野生に近い環境で育ったものだなーといまさらながら感慨にふけった。でも、確かにそういう環境で育ったのだ。
その体験については、今、まったく記憶にない。
似たような体験としては、当時、飼っていたトムという名のイヌと一緒に山深く分け入ったことだ。
山深く、はじめての場所で合う風景は、幼い私を不安とワクワク感とが入り混じったような不思議な気持ちにした。トムと一緒だったから試みた冒険だった。そしてその場所は、すでに記憶にあった場所と結びつき、私の世界は広がっていった。そんな体験をしながら、私は、頭の中に、当時の私の居住地(つまり実家がある集落)周辺の地図をつくりあげていったのだろう。
慶応大学の生物学者 岸裕二さんは、著書「自然へのまなざし」(紀伊國屋書店)のなかで、次のような文章を書かれている。
「乱暴を承知であてずっぽうをいえば、ホモ・サピエンスは少年・少女時代に大地と遊び、すみ場所の基本特性を心に刻み、地表に定位する習性をもつ生きものである。」
私はその言葉に、“乱暴を承知で”、とても共感するのである。
それにしても、繰り返しになるが、獲物を運ぶ山イヌに出合ったとは、なんとラッキーな少年時代を送ったことか、そして、その場面は、小林少年自身にとっても獲物にされる可能性のある、結構危ない場面だったのではないか、と思うのだ。
日記に書いている場合かよ。