自宅の(借家だけど)畑の土を少しだけ掘り起こしてみた。
そこから湧き上がるにおいは、私に、鮮やかでとても懐かしい記憶をよみがえらせてくれる。
それは私が、小学生の時、中学生の時、高校生の時、そして大学生の時(にも)、父母が住む故郷の畑で、春の畑を耕しながら感じたあのにおい、あの記憶なのだ。
たいていは、しばに一緒に耕す、兄がいたり、父がいたり、そして3年前に逝った母がいた。
暖かくておいしい空気の中で、少し耕しては草を除き、少し耕しては草を除き、そして畑はきれいな土色へと変わっていった。鳥が鳴いていた。ウグイスやジョウビタキなどだった。
動物行動学的に見て、ヒトは、愛情と攻撃性の動物である。多くの動物がそうである。
生物としての生存・繁殖には両方が必要なのだ。
でも、一方で、ヒトは、自分がどう生きるかを考え選択できる動物だ。
そして、傑出の言語学者にして進化心理学者のスティーブン・ピンカーは最近の話題著書「暴力の自然史」の中で、(意外に思われる方もおられるかもしれないが)人類間の殺人の頻度は、歴史の進行とともに一貫して減少していることを明白な数値とともに示している。
ひょっとすると遺伝的にも、愛情の感情をもちやすい性格の人のほうが、自然選択の結果増えているのではないかとの可能性も示している。確かに、石器時代と中世の時代と現代では、環境が違うのだから、どんな性質の個体が生存・繁殖に有利なのかは違ってきて当然とも考えられる。
技術の進歩がますます加速する現代において、さてどんな未来になっていくのだろう。
いわゆるAI(人工知能)なども踏めた「持続可能な社会」(そのためにはもちろん健康な生態系が不可欠である)の実現、がカギになることは明らかだ。
そして、私はどう生きるのか。
正直、日々の生活にゆとりがないんだよねー。その中でも信念の小さな断片をもっとたくさん社会に渡たそうと努力するのか、あるいは生活をガラッと変えるのか。
宝くじ、当たらないかねー。多くの人が思うことだろう。私は買わない(買ったこともない)けれど。
土のにおいを感じながら畑を耕していると、愛情が少し多めの心でいろいろ考えるんだよねー。