かのヘルマン・ヘッセが好きだったように、私も庭いじりが好きだ。庭いじりの一部としての野菜づくりのも好きだ。
でも、心に余裕がないと庭いじりや野菜づくりはできない。
昨年はまったく庭には手がつかなかった。
今もけっして時間があるとは言えないが、ときどき、草を抜いたり、衝動的に野菜を植えたり等々、昨年よりはましだろうか。
上の写真は、現在の庭の様子である。
少しだけ説明させていただくと、・・・・。
写真の上の、窓の前には、もう10年くらい前になるが、ビワの木や、ピンクの花を咲かせたハーブ類が植わっている。
ビワの木の前には、名前は分からないが、一年中実をつける柑橘類の木があり、昨日も、実を採って食べた。野生的な酸味が利いた、なかなかいい味だ。
その手前の、草が枯れたように見える区画は、シバの区画だ。今はこんなだがもう少しすると、シバが芽を出して、芝生らしくなるはずだ。
そしてその手前が野菜の区画である。ミニトマトやピーマン、パセリ、ナスビなどが植えられている。
写真の一番手前には、やはり植えてから10年くらいになるオリーブの木が写っている。
私にとって、庭つくりは、油絵を描くときの感じに似ている。色づけは油絵ほど思い通りには行かないが、油絵にはない直の命の感触や立体感が濃厚に味わえる。
それになんと言っても、庭の中では、私の管理下にはない動植物が、じつにさまざまなドラマを見せてくれる。たとえば今日見たドラマが下の写真だ。
生まれ来る命(多くのアリマキは、母親が卵ではなく成虫の姿と同じ子どもを産むのだ.→の先)と消えてゆく命(テントウムシの幼虫がアリマキを襲って食べている)。ハーブの群生の中で。
ハーブの群生の中で、繰り広げられていたドラマだ。
流れから言えば、柑橘類の葉にアゲハチョウが産卵しているようなドラマがよかったのだろうが、何せ、“私の管理下にはない動植”のドラマだ。
それは、ほほえましいものから、ちょっとした驚きの場面、命の本質を見せる真剣なやり取りまで、いろいろだ。
そんなドラマも含めて、心に多少なりともゆとりがあるときの庭づくりは楽しい。
ほんとにわずかな時間を費やしただけの、「庭づくり」と言うにはかなりおこがましい話だが・・・。