皆さんは上の写真の昆虫の名前をご存知だろうか。
シロスジコガネという甲虫だ。
私の怪しげな記憶では、私がこの昆虫にはじめてあったのは中学校のころだった。一目見て「きれいな」というか「体色のセンスがいいな」と思ったものだ。
数日前、久しぶりに、大学の建物の中に入ってきたシロスジコガネを見つけ、改めて、センスがいいデザインの体色だなーと感じると同時に、「かわいい目だなー」、「顔がジュゴンに似ているなー」と思ったのだ。
私の思いに賛同される方はおありだろうか。
さて、私はなぜ今回、シロスジコガネの話を書いたのか?
もちろん、十数年ぶりに出合ったシロスジコガネに心を動かされたことが一番の理由なのだが、それに加え、次のような、私の若き日の思い出があったことも関係している。
皆さんはお気づきだろうか。
上で書いた、私がシロスジコガネについて感じた思いの中に、物体として見たときの思い(「体色のセンスがいいな」等)と、他人や生物として見たときの思い(「かわいい目だなー」、「顔がジュゴンに似ているなー」)が自然に混ざり合って入っていることを。
私はさかのぼること30年近くも前、ヒトの認知の特性としてこの事実(つまり、人は外界の対象を、対物的な性質と、対人・対生物的な性質、両方の異なった面に反応して認知している)の重要性に気づき、英語の論文や本を書いたのだ。ただし、英語の論文は審査員から掲載不可とされ、本は、出版社が「本としての出版は難しいので、原稿の一部を雑誌に書き下ろしてください」ということになった。
そのころ私は高校の生物の教員をしていたのだが、短い断片的な時間を積み重ねて一生懸命に書いたのを覚えている。
分析の対象は、小説や楽曲、私が好きな美術作品、(変わったところでは)ヒトの顔、にも広げたが、「対物的認知と対人的認知」という視点での分析が、これまでにないヒトの対象認知の理解を生み出すを感じ、熱中していた。
たとえば、ヒトの顔を見たとき、われわれは、「色白」とか「バランスがとれた」とか「左右対称」とかいった対物理的認知と、同時に「セクシーな唇」とか「かわいいパッチリとした目」とかいった対人的認知を行う。
楽曲では、「後半の盛り上がりとなだれ込むようなエンディング」とか「構成が立体的である」とかいった対物理的認知と、同時に「悲壮感あふれる調べ」とか「苦しみに立ち向かう敢然とした意志を感じさせる」とかいった対人的認知を行う。
私はそのころ、欧米で「認知のモジュール理論(認知は、それぞれ独立に働く、物理専用、同種専用、生物専用といった各々固有の領域の活動として行われている)」が生まれつつあることを知らなかった。そしてやがて、その後欧米で発展した「認知のモジュール理論」は日本でも認知の重要な理論として広まっていく。
振り返れば、当時の私のアイデアは「認知のモジュール理論」と骨子は同じものであったと思うのだ。
私の論文を掲載不可にした審査員は、「認知のモジュール理論」を知らなかったに違いない。それは無理もない。私も知らなかったのだし、少なくとも日本ではもちろん、欧米でもあまり知られていなかったとも思われる。
ちなみに私が雑誌(大修館の「言語」)にアイデアの一部を書いた文章は、特に話題にもならなかった。
今回はちょっと自慢ぽさも入ってカッコつけて書いてしまった。でも、シロスジコガネの体色のセンスがいいように、私の発想のセンスもなかなかよかったのだと確信している。
最後に、体をつかまれたときシロスジコガネが発する音声も、動画でご紹介したい。
その姿や音声の中に、「対物理的認知」と「対人的認知」を感じられるかどうか意識して見て、聞いていただきたい。