昨年、庭に夏みかんの種を捨てたのだが、いつのまにかそれから芽が生え成長し、今年は20cmくらいの木になった。
そしてその木に、アゲハチョウが卵を産み(その現場は見てないが)、数匹の幼虫が葉の表面で暮らしはじめた。
体長が小さいときは、黒地に白が混じった体色で、ある程度大きくなると、全身が黄緑色にな。
小さいときの黒地に白が混じった体色は鳥やトカゲ類の糞への「擬態」効果、大きくなってからの黄緑色の体色は、柑橘類の葉への「隠蔽色」効果があることは容易に推察できる。
鳥やトカゲ類の糞は、哺乳類での液体の尿が白色の固体として、(純粋な意味での)糞と一緒に肛門から出されるため、まさに「黒地に白が混じった」色合いになるのだ。アゲハチョウの小さな幼虫を見るたびに私は、進化の力に思いを馳せながら、いつも感心するのだ。
「黄緑色の体色」にも工夫がほどこしてある。
体の前方には、左右に、黒い円形の斑点があり、その黒斑点の中央に白い線が1本、そして黒斑点の隅にはオレンジ色の小斑点が一つ。これが、黒斑点をよく目立たせ、黒斑点を動物の“目玉”のように見せている。
さらに、体をつかまれると、“目玉”の少し前の体表から、オレンジ色のVの字型の突起をニョキッと出し(その突起からは強烈なニオイがする)、つかんだ者を驚かせる。
昨日のある新聞に「私たち虫ガール」という記事が載っていた。
虫の形や色、習性の巧みに魅力を感じる女性が増えているらしい、といった内容である。
私が勤務する鳥取環境大学にも虫ガールはいる。4年生のゼミのHさん(彼女は、虫も含めたすべてのジャンルの動物が好きだ)や1年生で生物部部長のKさん達だ。
ちなみに私は、好き嫌いに関するヒトの認知のある部分は、そもそもどんなふうにその対象に出合ったかによって左右されると思っている。
たとえば、周囲の、親も含めた人達の反応に影響されて、その対象をどんなメガネをかけて見始めるか、・・・みたいな。
虫を見るときには、周囲が「虫って可愛いよね。おしゃれだよね。面白いよね」という姿勢で接していると、本来は、ホモサピエンス誰しも(特に女性)脳の内部にもっている「得体の知れないものに対する警戒感」は、容易に抑えられて、「これは気を許して美的感覚や面白さ感覚で接すればいいんだ」というメガネをかける。
ゴキブリを、(たとえば日本の一般家庭のように)「部屋の中を素早く動く不潔な動物」というメガネで見た人は、最初から極度なゴキブリ嫌いに仕上がるだろうし、(ヨロイオオゴキブリという、オオクワガタのように何年も生き、巣を作って子どもに餌を運ぶ習性のゴキブリが身近にいることが多いオーストラリアの家庭のように)「どっしりとして哺乳類のように子どもに餌を運ぶ種類もいる動物」というメガネで見た人は、違った感覚でゴキブリを見るようになるだろう。
それは、特定のユルキャラへの大人気や、カープガ女子の出現(そして拡大)といった社会現象にも共通する
カープ女子という言葉を作られると、それが一つのメガネになって自分もその渦の中に入ることに楽しさを感じたりするのではないだろうか。
虫ガールも新たなメガネとして、虫ガールを増やすきっかけになるかもしれない。いいことだ。
私の「認知フィルターとしてのメガネ」理論、この記事を書きながら自然に文章が生まれてきたものであるが、結構、いけてるかもしれない。ちょっと、真剣に発展させてみるか。
ナンチャッテ。