2016/08/11

何を思う、駅のキジバト


先日、岡山に行ったとき、駅の2階構内から見かけた光景である。

キジバト(駅と言えばこれまでドバトと決まっていたが、岡山駅ではキジバトまで駅に進出してきているのだ(鳥取駅では見られない光景だ)。

眼下を行き過ぎる、傘を差したホモサピエンスを目で追っていた。

もちろんキジバトが何を考えているのか(キジバトに意識があると前提しての話であるが)私には分からない。

でも近年の以下のような研究結果から、キジバトの思考の一端は類推できる。
”近年の研究結果”とは、例えば「ハトはキャンパスの表面の絵の具のタッチから、セザンヌの絵、ピカソの絵・・・・と、同一画家の絵を一群にして、互いに区別することができる」、あるいは、「ハトは、葉のみとか、幹の一部のみとか根っこの部分とかを、”木”として認識する」等々である。

おそらくこのキジバトは、傘をさしていようが、自転車に乗っていようが、その本体が、ある一つのカテゴリーに属する同一のものであることを確認、あるいは学習しているのではないだろうか。

そして、その認識と、”餌”や”捕食者”などの別な大きなカテゴリーとを、これまでの記憶とともに結びつけているのではないだろうか。

かく言う私も、キジバトの姿を見つめながら、”鳥の思考”という一つの概念を、これまでの記憶とともにまとめ上げようとしているのだ。

ひょっとすると、窓から外を眺めている私を、私の近くからじっと観察しているホモサピエンスとかキジバトがいたりして。

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