たとえば、道を歩いていたとしよう。上の写真は、鳥取環境大学の一画である。
ちょうどこれくらいの視野の中で皆さんは、ヤモリに気づかれるだろうか。
私は気づく。
おそらく、私の脳の中にはこれまで見てきた莫大な動物の映像が記憶されており、視野の中にそれらのどれかとマッチするパターンがあると反応し、私の意識生成領域に信号を送ってくるのであろう。
つまり、ヤモリの検出は、無意識の領域でなかば自動的に起こっており、そのあとで、意識がヤモリらしきものを感じるのだろう。
ちなみに、意識領域にヤモリの信号が送られてきたとき、あるいは、無意識の領域で、ヤモリらしきものが捉えられた時、私の心は、軽くビクン!と震える(でもそれがなぜなのかは、その後、情報が意識生成領域に届くまでわからない)。
その道に通じたヒトは、そのようにして、そうでないヒトが見る世界とは異なった世界を見るのだ。
もちろん、“その道”は、この例のように生物とか、雲とかいった“物”でない場合もある。音であったり、理論であったり、気持ちであったり、意見であったり・・・・・。
生きることに悩んできたヒトの脳の中には、たくさんの生きる上での問題やその乗り越え方が溜められていて、だから、悩んでいるヒトに気がつくことができ、心に響く言葉を発することができるのではないだろうか。
それは、上の視野の中でヤモリに気づくことよりずっとずっと大切なことだろう。でも、ヤモリに気がつく感覚の鋭敏さは、他のものに気がつく鋭敏さにもつながると思うのである。
あるいは、なぜこんな離れたところからヤモリに気がついたのだろう、と思索する中で、心も含めたヒトについての理解を深めていくのだと思う。
詩人になったような気分で、夏が終わろうとしているキャンパスの一画にたたずむ私でした。オシマイ
矢印の先にヤモリがいる(左).近づいてみたら・・・・(右)