2014.11.20
2014年11月10日、日本を代表する俳優の高倉健氏が亡くなった。そして「美学を貫いた○×」といった表現が、雑誌などの紙面に踊った。
私はこれまでに、ヒトが「美」と感じるものの正体(生物学的本質)を、ヒトの人生における行動の美(学)も含めて、動物行動学の視点から、繰り返し、書いてきた。
そして、今回、高倉健氏の人生や行動に「美」を感じる人々と共感もしつつ、再び、繰り返し、美の正体について書いてみたくなった。できるだけ簡潔に(まどろっこしくなったらゴメンナサイ)、できるだけわかりやすく(わかりづらかったらゴメンナサイ)、を心がけながら。
コクマルガラスなどの鳥類やカツラザルなどの霊長類は、冒頭の図の、上と下の模様が描かれたカードが同時に提示されたとき、上のほうの模様を好むことが実験で示されている。
一方、ヒトでも、上の模様と下の模様を比べてどちらが美しいか、と聞かれたら、まー上のほうを選ぶヒトのほうが多いのではないだろうか。
私の仮説をざっと言ってしまえば、次のようになる。
「“美”という言葉で、ヒトが表現しようとしているのは、その対象(の構造)が、より的確に把握できたという思い(また、それに伴なう快さ)である。」
的確に把握できたかどうかの一つの目安は、(意図した特別な努力を伴なわない状態で)よりよく記憶されたかどうか、だ。あとで「その対象を思い出してみてください」と言われたとき、より思い出しやすいほうが、より的確に把握できたと言ってもいいだろう(例外もあるが)。
そして、その対象が、風景だろうと、音楽だろうと、事物事象の因果関係を説明する理論や数式であろうと、他人の行動であろうと、より的確に把握できた場合のほうが、よりよい(自分の生存・繁殖に有利な)対処を取りやすいのである。
たとえば、音や物がリズミカルに変化するとき、その対象の動きを見切って、思いどうりの働きかけをすることは、より容易になる。一定の周期で打ち寄せる波に対して、波が来たときにジャンプするときの感じを思い浮かべていただきたい。
ヒトの行動もそうである。その行動が絶えず、一定の信念に基づいて行われている場合のほうが、われわれはそれを把握しやすい。たとえば、その行動が「悪」と感じられるものであっても、変わらぬ信念に貫かれて行われる場合には、われわれは、それを、悪の美学と表現することもある。
ただし、把握しやすい対象の内容が、それを把握する側の人間にとって、利益につながる可能性が大きいほど、美とともに感じる快さは増大する。
ヒトの行動で言えば、それが“行為者本人の利益より、他人を助けるような信念に貫いている”場合のほうが、われわれは美しさとともに快さを感じる。通りすがりの人物が、溺れている人を、自分の身の危険も顧みず助けようとする行動を思い浮かべれば納得していただけるだろう。
われわれは無意識のうちに、その人物の行動が我々自身に向けられる場合も想定し、快さが増すのである。
男性が女性の顔に感じる美は、左右対称で、目や鼻や口などのパーツのバランスが取れており、染みなどがない、といった構造的な要素に加え、それが同種(ホモサピエンス)の若い、かつ、成熟した異性(女性)であることを示す要素を豊富に備えているほうが、美とともに感じる快さは増す(弾性の生存・繁殖に有利だからである)。
高倉健氏の、“利他的で信念に貫かれた”と思わせる人生が、人々に、大きな快さを伴なった美を感じさせたのではあるまいか。