2016/12/01

「人は幸せになれるようにデザインされていない」は越えられる


先日、テレビを見ていたら、古舘伊知郎さんが、印象に残った言葉みたいなコーナーで、そんな言葉の一つとして次のようなものをあげられていた。
「人は幸せになろうとするが、人は幸せになれるようにデザインされていない」

私がまず思ったのは、へー、いい表現をした人物(たぶん生物系の研究者)がいるんだなー。
私はまーざっくり言ってこの言葉が好きだ(ただし、最後まで読んでほしい)。動物行動学的に、生物の本質をついた言葉だと思った。それを選んだ古館さんの直感もいいね、と思った。

 ちなみに動物行動学や進化を前提にした科学が生物の形態や行動、心理に関して根本的な原理として認めていることは、次のような内容である。
「生物は(正確には遺伝子は)自分のコピー(まーざっくりと“子ども”と考えていただいてもよい)が、より多く増えるような体のつくりや脳のつくり(それが行動や心理の形態を大まかに決める)をもつようになっている」

この言葉の中の“デザイン”というのは、たとえば人の顔の二つの目が、(ウサギやシカの目が顔の両サイドについていて捕食者を早く見つけらえれるように広い視野をカバーしているのとは違い)、顔の前面に並んで位置している、といった“デザイン”と同じである。

「顔の前面に並んで位置している」目は、人が進化した舞台となった、開けた植生地での“狩猟採集”という生活環境で、生存・繁殖に有利になるように、両目が重なる部分を増やし、正確な距離の把握を可能にしているのだ。

いっぽう“幸せになれるようにデザインされていない”というのは、主に脳(脳内の神経の配線)が、(安定していつまでも)幸せを感じていられるようには配線されていない、デザインされていない、ということである。
なぜそのほうが、その生物は生存・繁殖において優位にたてるのか?
それは、まーざっくり言えば、「いつまでも幸せを感じていたら、より良い状態につながる努力やもがきをしなくなるから(幸せ感は、ほどなく、なくなり、また幸せを求めて努力する個体のほうが、結果的に生存・繁殖に有利になるから)」ということである。
脳は、目の前に人参をぶら下げて馬を走らせるように、幸せをぶら下げて(たまにかじることができてもまたすぐ離れて・・・)個体を走らせるのである。
生存・繁殖に有利な方向へと。そんな脳をもった個体のほうがより多く生き残り、世代を重ねるごとに割合を増やしていき、現代ではほぼ全てがそんな個体になっているというわけだ。

さて、でも、である。
ヒトは動物の中で、こういった生物の本質的な性質を知った、少なくとも地球内では唯一の生き物だ。物事はその仕組みが分かれば状態を変えることが出来る(場合が多い)。
実際、ヒトは、脳のデザインを現代に合わせてうまくコントロールしている場合もある。たとえば、ヒト本来の「開けた植生地での“狩猟採集”という生活環境」では、糖分を取ることは難しく、手に入ったときには全部平らげてしまうようくらいの意欲をもっていたほうが健康にはよかったと考えられる。脳はそういう、糖分に対する強い食欲をもつようにデザインされているのである(それのデザインは現代でもまだ変わっていない)。しかし、現代、糖分を増産するようになって、あふれる糖分に「糖分に対する強い食欲」が働いて生じるさまざまな病気などに直面し、脳のデザインの裏をかく方法をいろいろと生み出している。味は甘いが糖分ではない成分をつくる。
誤解をおそれずに言うと、避妊具もその一つだろう。

“人は幸せになれるようにデザインされていない”、つまり“人は、安定して幸せを感じるような脳をもっていない”という状況についても、われわれは脳の裏をかくことによって、現代社会の中で生きつつ、比較的安定した幸せを感じつづける方法はあるはずだ。
これまで全世界で、(幸せな)生き方に関する莫大な量の本が出版されてきたが、そしてこれからも出版されるだろうが、それは結局のところ、まーざっくり言えば「脳の裏をかくことによって、現代社会の中で生きつつ、比較的安定した幸せを感じつづける方法」を模索しているということなのである。
 もちろん「幸せ」とは何か?という本質的な問題も問いつづけることが必要なのとは言うまでもない。

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