早春の河原はいい。
草がまだ芽吹いていないので見晴らしがいいし、歩きやすいし。
そして、穏やかな色合いの水の景色とニオイが静かに心を励ましてくれる。
ヤナギの芽はほころび、一足早く日本に到着したヒバリが、空高く舞い、求愛と縄張りの歌を響かせる。
鳥といえば、モズも昨年の秋に枯れた葦の間を飛びながら、巣をつくりはじめる。
ところで皆さんは「モズの早贄」をご存知だろうか。
捕らえた獲物を、鋭い木の枝などに刺しておく習性である。
モズの早贄になったアマガエル。昨年作成されたものらしいが、モズは結局食べなかったということだ
なぜモズはそんなことをするのか。
仮説としては、“餌の貯蔵”説、“縄張りのアピール”説などいろいろあるらしいが、現在、最も可能性が高いのは次のような仮説だ。
モズは、足の使い方がそれほど巧みではないので、とりあえず、獲物を木の枝などに刺して固定し、それから嘴でちぎって食べる。でも、何かに驚いたり、ちょっと食べて食欲が満たされたときなど、残りをそのまま放って飛んでいく。
そして、「モズの早贄」がそこに残る。
この説が正しいのかどうかは分からないが、アマガエルを素材としてアレンジした「モズの早贄」を見つけた私は、それを見ながら河畔の石に腰かけて考えたのだ。
モズは、獲物を捕らえると、こういう行動を知らず知らずのうちにやってしまうのだろう。そして、その行動の起こり方は、ある程度まで、ヒトの場合と同じだ。
ヒトが、早贄をするという意味ではない(そんなヒトがいたらそりゃー面白いが)。思わず、本能的にやってしまうということだ。
腕の上を虫が這うと、思わず、手で払おうとする。足元に、突然、黒くて長いものがとび出してくると、恐怖を感じて思わず身を引く。
どちらの場合も、「アマガエル」や「虫」や「黒くて長いもの」を眼や皮膚で認知し、ある行動を行っているのだ。
でも、もちろん、モズとヒトの違いもある。それは、「何かを認知して反応している自分」を認知するということである。認知して、ある行動を行うこともある。
動物行動学では、こういう違いを、「認知の階層性の高さの違い」と表現する。また、「何かを認知して反応している自分」を認知する特性を「自我」と呼ぶこともある(その辺りのことが詳しく、かつ、適切にお知りになりたい方は、拙著「絵でわかる動物の行動と心理」講談社2013を読んでいただきたい。おすすめの本だ)。
私はその本の中で、ヒトの特徴の一つは、認知の階層性がとても高いことだと主張している。
私は、そのあと、早贄にされたアカガエルの状態を、かぶりつきで観察し、その体には全く欠損がないことを確認した。つまり、モズは、全く食べていないのだ。
そして、上でご紹介した“現在、最も可能性が高い仮説”(食べるつもりで刺したが、ちょっと食べてもう満足した)にちょっと疑問を感じたのだ。もちろん、仮説は、たくさんの事例を調べた上で考えられたものであり、少々例外が起こってもまったく問題ない。
でも、私は、せっかくだから、新たな仮説を考えることにした。
少し考えて、思いついた仮説は次のようなものである。
早贄をするのは雄で、それは、雌への求愛メッセージになっているのではないだろうか。
「絵でわかる動物の行動と心理」でもそういった事例をたくさんあげたが、雌は、狩りがうまい雄に惹かれる傾向があり、雄は雌に、自分の狩りのうまさを見せることによって番の相手を獲得する例が鳥などで多く見られるのだ。
たくさんの早贄は、狩りのうまさを示していると考えることは説得力があるように思える。
この仮説の検証・・・・、まずは、「早贄は雄だけがやるのかどうか?」を調べればよい。
「科学的仮説の資格をもつ仮説は、検証が可能であること」とは、かの有名な科学哲学者カール・ポッパーの言葉である。だからひとまずは、わたしの仮説は、その資格があるということだ。
そんなことをいろいろ考えながら私は、早春の河原を後にしたのだった。これも一つには、ヒトの認知の階層性の高さゆえであろう。
そうだ。最後に、どうしても言っておかなければならないことを思い出した。
それは、「モズの認知にも限界があるのと同様に、ヒトの階層性にも限界がある!」ということだ。
その辺りのことが詳しく、かつ、適切にお知りになりたい方は、拙著「ヒトの脳にはクセがある 動物行動学的人間論」新潮社2015/を読んでいただきたい。おすすめの本だ。
今日はなんか、本の押し売りのようになった。申し訳ない。
ではオススメ、じゃなかったオヤスミ。
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