2017/01/07

ユヴァル・ノア・ハラリ著 「サピエンス全史」についての動物行動学的考察


「利己的遺伝子(利己的単位)説」と「因果関係を認知する高い能力」でこれまでのサピエンス史全の必然性とサピエンスの未来がわかる
―― 動物行動学から、ユヴァリ・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」を考える
 

  私は、今、世界で多く読まれ、日本でも話題になっているユヴァリ・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」の内容について、ざっくり言えば、「動物行動学をベースにすれば、サピエンス全史は、もっとシンプルに説明できますよ」ということを説明したいと思う。そのために以下の文章を書いた。
  早速、はじめたい。

  まず最初に定義しておきたい。
  本論のタイトルで上げた「因果関係の認知」とは、「われわれの外界の事物・事象からわれわれに届く情報を、次のような繋がりでむすびつける」ことである。
 ① いつ、何が、何処で、どうなっている。 (例)僕の友達が鳥取駅で待っている。
 ② ~だから・・・になった。() 僕が集合時間を勘違いしていたので彼は1時間待ちっぱなしになった。
 ③ もし~なら・・・だろう。 () もし僕が時間を間違えていなかったら彼は1時間も待ちっぱなしにならなかっただろう。

   ちなみに、われわれホモ・サピエンス(以下、サピエンスと呼ぶ)の脳は、基本的にはこのような様式で情報を処理するように、神経の配線ができている。そして、それぞれの状況での情報処理結果の内容に応じて、感情や行動が発言する。その“内容”と“感情や行動”の関係についての仮説が「利己的遺伝子(利己的単位)説」であり、本論では、その説明からはじめる。

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   正確に言うと、「利己的遺伝子(利己的単位)説」が正しいと思うのであるが(その理由は後程お話する)まずは、単位を、その典型例である“遺伝子”に絞って説明する。
   利己的遺伝子説とは、「自分のコピーを次世代により多く残すことができる遺伝子(デオキシリボ核酸:DNAあるいは、リボ核酸:RNAからできている)が細胞の中で(細胞が集まってできた“個体の中で”、と言ってもよいだろうし“地球の中で”、と言ってもよいだろう)増えていく」という説である。当たり前のことと言えば当たり前のことである。
   このような特性をもった遺伝子の状態を一言で、直感的にわかりやすい言葉で表したのが「利己的」というものである。ちなみに、「自分が次世代でより多く増えていく」ためには、遺伝子同士や細胞同士、個体同士の協力とみなされるようなことも生じてくる。ただし、それはあくまで、そのほうが、その遺伝子が増えやすいためである。

    われわれサピエンスを見ても、河川の水辺で生きるスジエビを見ても、森の土の中で生きる破傷風菌を見ても、すべてそうだ。
   サピエンスでは、遺伝子は「脳」という器官を含んだ身体(遺伝子の一種の乗り物)を設計し、物を食べさせ、危険から逃れさせ、異性と交尾させ、その身体(乗り物)が壊れてしまう前に子どもを作りあげ、その中に、自分(つまり遺伝子)のコピーを残す。それを代々続けている。スジエビもそうだし、破傷風菌は脳は持たないが、その遺伝子は、結局、同じことを行なっている。

   さて、サピエンスの本来の生活=自然の中での狩猟採集生活(この生活がサピエンス全史の9割以上を占める)においては、どんな遺伝子が、「自分のコピーを残す」上で優れていただろうか?
   それは、「野生生物(動物や植物)についてその習性をよく理解し記憶するの脳をつくる」遺伝子、「異性の中から子どもをたくさんつくる上で優れた身心(狩猟採集がうまかったり、自分や子どもをしっかり守ってくれたり、競争に強かったり・・・)をもつ異性を見抜くことができる遺伝子、等である。

   そんな中で、サピエンスが、狩猟採集生活から、農耕・牧畜といった定住生活に移ることは必然だったのだろうか?
   必然だったと思う。
   ただし、それは一つの坂を上り切れば、の話だが。
   その坂というのは、おおざっぱに言えば、「因果関係を認知する高い能力」の獲得ということである。

   もし、「因果関係を認知する高い能力」があれば、「裏切り者には敵対的にふるまい、協力者とは友好的にふるまうことによって、協力者同士は、一人一人ばらばらに(あるいは少人数ごとにばらばらに)生きていくより、たくさんの食料を得ることができ危険からも逃れやすくなり、つまりは子どもをたくさん残すことができるようになる」ことに気づくはずである。その間、様々な試行錯誤があるだろうが。
つまり、より高い生産性があり管理しやすい植物や動物を、より多くの協力者たちと一緒に育て、食料を得るほうが子どもは残しやすいことに気づくはずだ。すなわち、農耕生活、牧畜生活である。

もちろん、ハラリ氏が指摘するように、そういう集団の中には、日常的に、個々人の栄養状態はよくなかったり、異常な気候に見舞われた時などは餓死してしまう大人や子どももいただろう。しかし総合的には、狩猟採集生活の集団より、より多くの子どもを残しただろう。
そして、そういった大人数が定住して協力して生活する集団は、狩猟採集生活の集団より、武器や人数などで勝り、戦いになると勝ってしまうだろう。それが続くと、後者の集団はだんだんと数が減っていき、前者の集団が増えていくことになっただろう。

   では、“文明”はなぜ発生し発達したのか? それは必然だったのだろうか?
   必然だったのだ。

   サピエンスは遅かれ早かれ、より多くのエネルギーを生み出すものを「因果関係を認知する高い能力」によって発明しただろう。実際の歴史では最初に見つけられたものは石油・石炭だったが、別の可能性もあっただろう。太陽の熱エネルギーや、水の落下のときの運動エネルギーといった強力なエネルギー源が見つかると、サピエンスは試行錯誤を経て、それらのエネルギーをもとに、自然物に働きかけ(変化させ加工し)、より快く感じられるものをつくりだしていっただろう。
   大抵は、その快いと感じるものが、より多くの子どもを残すことにつながるものである。
   雨や風を防いで暖かい場所で過ごせることは快い、異性と交尾することは快い、子どもが元気に育つのをみるのは快い、仲間と協力して何かを成し遂げることは快い・・・・。
   サピエンスの脳はそのようなデザインになっているのだ。そのような脳をつくる遺伝子のほうが、そうではない脳をつくる遺伝子より増えやすいのである。
   そのような「快を求める心理」と「因果関係を認知する高い能力」とが絡み合って試行錯誤か繰り返されながら並走する中で、産業が生まれ、貨幣が生まれ、資本主義的経済構造が生まれてきたのだ。サピエンスの脳の特性を考えれば、試行錯誤を経れば、それは必然的に起こることだったのだ。

   ちなみに、資本主義としばしば対比されるのが共産主義(人は能力に応じて働き、必要に応じて得られる。ヒトは働くことに喜びを感じる。そういうシステムを政府がうまく維持していく、といった構想)だ。
   なぜ共産主義でなく資本主義なのか(厳密な意味での共産主義はこれまで地球上に実現したことはない)?
   それは利己的遺伝子がつくりだす脳は、共産主義を生み出しにくいからである。他の個体と協力し集団をつくり、他の個体や集団と競争して、自分の遺伝子をより多く残せる状態になろうとする脳は、資本主義的な道筋に合うのである。

   民主主義、基本的人権の考えはなぜ生まれたのか?

   個人に間に情報がある程度以上、行き来するようになると、少数がの個体が多数の個体をうまく搾取するような仕組み(独裁制や封建制など)は必然的に崩れていく。“多数”が協力してその仕組みを壊そうとするようになるからだ。そして、妥協の産物として生まれたのが民主主義である。
   基本的人権はどうか?
   独裁制的な仕組みが崩れると、自分が集団の中で守られやすくなるためには、集団内で、誰もが守られるルールをつくったほうがよいと、サピエンスの脳が、因果関係的認知を作動させて判断するからである。ある個人の生存する権利が侵される集団では、その対象がいつ自分のなるかわからないのだ。   

   さて、ここからが“未来”だ。
   これまでのような考察を続けていくと、サピエンスを含めた地球上の生物の未来が見えてくる。

   利己的遺伝子説が示す「自分のコピーをより多く残す遺伝子(を乗せた個体)が増えていく」という進化の原理で今も、サピエンスの活動の大きな流れはできているのだが、現在、サピエンスが直面している壁は、「因果関係を認知する高い能力」の高さが頭打ちになっている、というところである。
   なぜそこにこのような壁があるのかというと、現在のサピエンスにおいては、脳に提供できるエネルギーの量に限界があるからである。
   サピエンスの場合、脳内の神経系を休みなく、素早く作動させるためには大量のエネルギーを必要とするのだが、食べ物を口から取り込んで消化吸収し、化学反応を経てつくりだせるATPというエネルギーの通貨には限度があり、それを、脳活動以外の生命活動と分け合わなければならないのだ。
   もしその壁が突破できる利己的単位(ここで単位が重要な意味をもってくる。必ずしも遺伝子ではなくてもよいのだ。これまでの地球上の生命では、単位は遺伝子だった、というだけのことだ。ちなみに、地球上において最初に誕生した生物とみなされるものは、太古の海の中で、自己複製できるRNADNAの断片であった)が生まれたら、それはサピエンスの増殖率を超えて地球上に(やがては他の惑星にも)増えていくだろう。

   サピエンスの未来?
   それは、「“壁が突破できる利己的単位”に、これまでのサピエンスが担っていた位置(地球上で利用できる資源を最も多く利用する種という位置)を明け渡す」である。
   そして“壁が突破できる利己的単位”とは、多分生物型AIである。
   サピエンスより、多くの情報を分析して、素早く正確に把握し、エネルギーを得、自分の身を守り、(たぶん異性は必要としないだろう)、自分のコピーがより多く増えることができるような物質的変化を起こすことができるプログラム(あるいは、それを内蔵したロボット)が一端、サピエンスによってつくられれば、それはどんどん増えていくであろう。サピエンスがつくりだしてきた、人工物も耕作地なども取り込んで作り変え、どんどん増えていくだろう。

サピエンスの科学の進展の中でそういったプログラムがどうしても生まれてくると思うのである。残念ながら。それはシンギュラリティの一つと言ってもよいのかもしれない。
   一時的には、サピエンスの脳内にAIが埋め込まれたり、遺伝子とコラボするAI内蔵サピエンスやサピエンス内蔵AIも生まれるかもしれない。しかし、そういう時代はやがては過ぎ去り、完全な、金属だけの利己的単位(AI)ができるだろう。というか、その動きを誰も止めることはできないだろうと思うのである。

   そうなると、地球の歴史上はじめて(これまで有機物でできていた生物に混じって)、金属からできた生物が誕生することになる。その生物は、現在、地球上でサピエンスが広がっている以上に拡散するだろう。それは、これまでの地球の生物全史の中で、サピエンスが、ここ数千年のうちに見せたのと同様なことである。

   金属でできた生物型AIは、歴史を振り返るだろうか。おそらくサピエンスが残した記録も含めて、歴史を振り返るだろう。
   そして生物の歴史を認識して、「ああ、ここではじめて金属の生物が誕生したのか」と、現在、われわれが「ああ、ここで人類が誕生したのか」と同様な認識をもつのではないだろうか。
   そんな時代はかなり先の話だろうが、生物の進化を客観的に見ていると、AI型生物の出現・拡大はそれほど奇異なことではないと思えるのだ。

   最後に、ここまで読んでくださった方の中の何人かは、次のような疑問をもたれるかもしれない。
「生物型AIは意識を持つのだろうか?」
このとても興味深い問題については、私は、「ヒトの脳にはクセがある ― 動物行動学的人間論」(2015 新潮社)に書いた。ここで内容を詳しく説明することはできないが、ごく短く言えば次のようになる。
現在、われわれが解明してきた脳内での物理的変化(神経細胞の内外へのNaイオンの出入りの変化、とか、シナプス間でのアセチルコリンなどの伝達物質の行き来、等)と“意識”とは、われわれの脳が、同一のものを別な形で認識しているだけだ。

“意識”の定義にもよるが、生物型AIの中で、われわれの脳内のような物理的変化が起こっているのなら、それが有機物であろうが金属であろうが(ちなみに、Naイオンは金属である)、意識は当然ある、と考えるべきだろう。

以上が、私が、ユヴァル・ノア・ハラリ著 「サピエンス全史」をざっと読んで、動物行動学の視点からはこういうふうにも考えられる、と思ったことである。






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