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2016/10/22

鳥取に地震が.そのとき私は.


私が住む鳥取県で昨日、地震があった。

私は講義をしていた。揺れがだんだん大きくなり天井の電灯もきしむような音がしはじめたので、「机の下に入れ」と言った。半分ほどの学生が机の下に入った。

私も教壇の下に入ろうとしたら揺れがおさまってきた。



研究室へ戻ってみたら、電波受信器にとまらせていた、私のお気に入りの、金属の美しい蝶が床に倒れていた(上の写真)。


家に帰ってみると、私の部屋の、私のお気に入りの魚のオブジェがピカソの絵葉書の上で倒れていた(上の写真)。

私のお気に入りの動物たちが、部屋の皆を代表して倒れてくれたということだろうか。

PCを開いたら、ありがたいことにいろいろな人から心配するメールが届いていた。電話もあった。
メールの中には、この人、誰だったかなーと、思い出せない人もいた。

今後1週間は警戒態勢が必要だという。

何十年に一度くらい、来るか来ないかといった大きな災害に対してそれほど不安にならない心理を、動物行動学的、あるいは進化心理学的には「適応的楽観心理」と呼ぶ。狩猟採集の生活の中では、目前に感じるいろいろな潜在的危険要素全部に敏感に反応していたら精神的に衰弱してしまうから、適度に楽観的くらいが生存・繁殖には有利だった、という推察が根底にある。

でも現在は、人工的な危険も含め災害の予知の精度が科学によって桁違いに上昇し、かつ災害の規模も大きなものが増えてきた、という理由で、われわれは、いわば本能的「適応的楽観心理」を理性的に制御する必要があるのだろう。

それともう一つ感じるのは、災害への予防と、自然生態系を基盤に置いた持続可能な社会の構築は方向を一にするものだ、という認識である。


2015/08/23

動物行動学のこと・・・夏の後半の始まりに思ったこと


 私が担当した大学でのある講座に、学生時代に工学部で、生物の生理機構について研究され現在は高校の生物の先生をされている方が参加されていた。

 チャーミングな女性で、だからというわけではないが、その方が、私が書いた本が面白い理由(私が書いた本を読んでくださっていたのだ)をしゃべられるのを聞いていて、私は改めて、動物行動学の奥深さ、面白さを認識することになった(あまりにも間近過ぎると当たり前になってその存在の貴重さがわからなる・・・それは確かにあることだ)。

 私が“改めて”感じたのは次のようなことだった。

私も含めて、多くの人は、生命の歴史、自分が今存在することの意味・・・そんなことを科学の物語で考えることに魅力を感じるものなのだ。
動物行動学は、私が大好きな動物と、その息づかいさえ感じられるほどの近さでふれあうこともOKとしてくれ、さらに、そうして分析した結果を「生命の歴史、ヒトの来た道を示す科学の物語としてまとめあげよ」と要求する学問なのだ。

そんな学問に、多感な学生時代に出会え、今続けていられることを感謝したのだ。

ただし、一方で、私はいつも思うことがあるのだ。
それは、私の人生は、病気的な体の状態との闘いだったなー、と。

それは、程度の差こそあれ誰でもそうなのだろうが、虚弱な私は、容易に調子を崩して動きを止める頭と体を、何度、どんなに恨めしく思ったことか。

病気は人を卑屈にもするし、深くもする。
私もいずれの影響も被った気がするが、でもいずれにせよ、生物や動物行動学によってとても救われたことは確かだと思うのだ。

2015/08/22

自然はアートでできている。いや、本当は逆なんだ!


 いまさら言うまでもないのだが、自然はアートに満ちている。
 上の写真は、ヤママユガの体の一部である。

 気持ち悪い、と思われる方もおられるかもしれない。でもそれはそれでアートの特性ともいえる。
 優れたアートは、あなたの心をかき乱す! そう、芸術は爆発だ!と、かの岡本太郎氏は叫んだではないか。


 ちなみにヤママユガの繭は、下の写真のように、とてもきれいだ。ポップアートと言ってもいいだろう。



 やっぱり自然はアートに満ちている。

 でも本当は違うんだ。逆なんだ。
 ヒトの脳が、自然を、“アート”という感じ方で受け取るようにつくられているのだ。
誰がつくったか?

自然淘汰がつくったのだ。

つまりこういうことだ。

自然の事物事象に、驚嘆や感動の気持ちで反応するような脳をもった個体は、“自然の中での狩猟採集生活”の中で、より自然を深く知り、他個体よりも、より生き延びやすかったということだ。
たとえば、暗闇の中で小さなろうそくの“火”をじっと見つめる子ども。彼らにとって、そのとき“火”はアートなのだ。

アートの意味を生物学的に分析したアメリカのE. Dissanayakeは、アートは、対象を「make it special」(特別なものに感じさせる)ことだする著作を発表し、多くの研究者から評価を得ている。

今回の私の記事で、あなたにとってヤママユガは特別なものになりませんでしたか?印象に残りませんでしたか?
それはあなたの脳がそう反応したのです。

別に・・・。

と思われたあなた、野に出て、実物のヤママユガとその繭に出会ってみよう。何かが心に残るに違いない。


トラウマだったりして・・・。そのときはゴメン。

2015/08/04

もう一回、スナフキンのマグカップ



 先日、スナフキンのマグカップを買ったことをお話した(その話、読んでおられない方は読んでクラハイ)。


 マグカップを見ていたらスケッチがしたくなって、背景のいろんなものを含めて書いてみた。ほんとに何も考えないで自由に数分で描いた。上の絵だ。

 私は自分が描く絵が好きなのだけれど、絵を見ていると自分がどんな感じのホモサピエンスなのか、多少、分かってくる。それは成長とともに変化する。

 昔のホモサピエンスが壁画などの絵を描くのはいろんな意味があっただろう。その意味の一つは、記憶の中にある自分が好むイメージを、はっきりと外界の一角に現して、容易に見つめる快さを味わいたかった、ということではないだろうか。そして、そのイメージを、他のホモサピエンスにも見せたかったのではないだろうか。

 動物行動学の分野では、絵画も含めた芸術の機能として、「あるメッセージを他個体に、印象深く伝えること(make it special)」とか「自分の技術を異性に示して自分の価値、魅力をアピールすること」、「外界を分類、整理して脳内に記憶しやすくする」、「対象を、それまでにはなかった見方で示すことによって対象の操作に新しい(生存繁殖上の)有利さをもたらすこと」などがあげられている。

ちなみに3つ目の仮説は私の仮説である。それは、印象派からキュビズム、現代美術におけるさまざまな表現法の革新を見ていれば納得していただけるのではないだろうか。


 まー今はそんなことはどうでもいい。楽しかった。

2015/07/26

シロスジコガネと「対物的認知・対人的認知」(動画)


皆さんは上の写真の昆虫の名前をご存知だろうか。

 シロスジコガネという甲虫だ。

 私の怪しげな記憶では、私がこの昆虫にはじめてあったのは中学校のころだった。一目見て「きれいな」というか「体色のセンスがいいな」と思ったものだ。

 数日前、久しぶりに、大学の建物の中に入ってきたシロスジコガネを見つけ、改めて、センスがいいデザインの体色だなーと感じると同時に、「かわいい目だなー」、「顔がジュゴンに似ているなー」と思ったのだ。

 私の思いに賛同される方はおありだろうか。


 さて、私はなぜ今回、シロスジコガネの話を書いたのか?
もちろん、十数年ぶりに出合ったシロスジコガネに心を動かされたことが一番の理由なのだが、それに加え、次のような、私の若き日の思い出があったことも関係している。

 皆さんはお気づきだろうか。
 上で書いた、私がシロスジコガネについて感じた思いの中に、物体として見たときの思い(「体色のセンスがいいな」等)と、他人や生物として見たときの思い(「かわいい目だなー」、「顔がジュゴンに似ているなー」)が自然に混ざり合って入っていることを。

 私はさかのぼること30年近くも前、ヒトの認知の特性としてこの事実(つまり、人は外界の対象を、対物的な性質と、対人・対生物的な性質、両方の異なった面に反応して認知している)の重要性に気づき、英語の論文や本を書いたのだ。ただし、英語の論文は審査員から掲載不可とされ、本は、出版社が「本としての出版は難しいので、原稿の一部を雑誌に書き下ろしてください」ということになった。
そのころ私は高校の生物の教員をしていたのだが、短い断片的な時間を積み重ねて一生懸命に書いたのを覚えている。
分析の対象は、小説や楽曲、私が好きな美術作品、(変わったところでは)ヒトの顔、にも広げたが、「対物的認知と対人的認知」という視点での分析が、これまでにないヒトの対象認知の理解を生み出すを感じ、熱中していた。

たとえば、ヒトの顔を見たとき、われわれは、「色白」とか「バランスがとれた」とか「左右対称」とかいった対物理的認知と、同時に「セクシーな唇」とか「かわいいパッチリとした目」とかいった対人的認知を行う。
楽曲では、「後半の盛り上がりとなだれ込むようなエンディング」とか「構成が立体的である」とかいった対物理的認知と、同時に「悲壮感あふれる調べ」とか「苦しみに立ち向かう敢然とした意志を感じさせる」とかいった対人的認知を行う。

私はそのころ、欧米で「認知のモジュール理論(認知は、それぞれ独立に働く、物理専用、同種専用、生物専用といった各々固有の領域の活動として行われている)」が生まれつつあることを知らなかった。そしてやがて、その後欧米で発展した「認知のモジュール理論」は日本でも認知の重要な理論として広まっていく。
振り返れば、当時の私のアイデアは「認知のモジュール理論」と骨子は同じものであったと思うのだ。

私の論文を掲載不可にした審査員は、「認知のモジュール理論」を知らなかったに違いない。それは無理もない。私も知らなかったのだし、少なくとも日本ではもちろん、欧米でもあまり知られていなかったとも思われる。

ちなみに私が雑誌(大修館の「言語」)にアイデアの一部を書いた文章は、特に話題にもならなかった。

今回はちょっと自慢ぽさも入ってカッコつけて書いてしまった。でも、シロスジコガネの体色のセンスがいいように、私の発想のセンスもなかなかよかったのだと確信している。

最後に、体をつかまれたときシロスジコガネが発する音声も、動画でご紹介したい。

その姿や音声の中に、「対物理的認知」と「対人的認知」を感じられるかどうか意識して見て、聞いていただきたい。


      

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